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【いざ鎌倉(13)】苦悩する2代目 源頼家の憂鬱

今回は重臣梶原景時を失った後の源頼家の政治を見ていこうと思います。
意欲はあるんですが、なかなか宿老たちとの軋轢から自分のやりたいことを進められない2代目の苦悩。
少しずつ政務から趣味の世界へと逃避することも増えていきます。

本編前回はこちら。

梶原景時の人物伝を一度挟みました。

栄西の鎌倉招聘

正治2(1200)年1月13日、源頼朝の一周忌の法要が行われます。
この際に導師として仏事を取り仕切ったのが、日本に臨済宗(臨済禅)を伝えたとされる栄西です。

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2度の入宋(中国渡航)経験があり、禅を学んだ栄西でしたが、九州や京など西国での布教は既存の仏教勢力(主に天台宗)からの批判により必ずしも順調とは言えず、幕府に招かれ、鎌倉にやってきたのでした。
当時は念仏や禅を重視する教学は新興宗教であり、権力・権威と結びついた旧仏教勢力からは批判の的です。
栄西はこの年の閏2月、政子が建立した寿福寺の初代住職にも選ばれ、幕府に重用されます。
なお、寿福寺は後に鎌倉五山第三位の寺院に定められ、今日に至ります。

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臨済宗はこの後、鎌倉幕府に庇護されて大きく発展しますが、その第一歩がこの時期の栄西の鎌倉招聘でした。
京における公家と比叡山天台宗を旧勢力と考える対抗意識から、新興階層である武士と仏教界における新たな教学である禅宗は利害と相性が上手くマッチしたと言えます。

源頼家の政策はなかなか上手くいかなかったものが多いのですが、栄西と臨済禅を重用した鎌倉における新たな仏教秩序の構築は今日の鎌倉の都市、景観、文化にも大きな影響を残したものです。

深まる頼家と御家人の対立

正治2(1200)年1月23日に三浦義澄、4月26日に安達盛長が相次いで病死します。
いずれも頼朝とともに源平の戦いを勝ち抜いた宿老です。
「十三人の合議制」の成立からわずか1年で、討たれた梶原景時を含め、13人中3人が他界することとなりました。

乳母夫の梶原景時を失ったことは頼家政権に大きなダメージですが、頼家は決して政治への意欲を喪失したわけではありません。しかし、その意欲が父・頼朝を支えた御家人との溝を深めることにもなりました。

8月2日、父・頼朝の挙兵時からの功臣・佐々木経高を淡路・阿波・土佐3か国の守護職から解任します。兵を集めて京を騒がせたことで後鳥羽院の怒りを買ったことが理由でした。
頼家にとっては、後鳥羽院に配慮し、朝廷と幕府の関係を円満に保つための選択でしたが、経高とともに平家と戦った同志の御家人たちには不満の高まる判断となってしまいました。
少々の不祥事で頼朝様が決めた役職を解任するなんてけしからん!!というわけですね。

さらに頼家と宿老の対立を深めることになる政策が、御家人たちの所領について記した大田文(土地台帳)の提出を諸国に求めたことでした。
この政策は、いわゆる「御恩と奉公」の御恩で父・頼朝が御家人たちに与えた所領について再計算し、過大なものについては没収の上、所領の少ない御家人へ再分配することを目的としていました。
当然ですが、このようなことを行えば戦場で命がけの戦いの上に多くの所領を得た宿老たちは不満を高めることになります。
結局、宿老たちの強硬な反対論の前に、頼家はこの所領再分配政策の撤回を余儀なくされました。

源頼家と蹴鞠

3代将軍源実朝が和歌の名手であったことは有名ですが、兄である頼家が得意で愛好したのが蹴鞠です。政治的に挫折を繰り返した頼家は、政務から逃げるように蹴鞠への関心を強めていくことになります。

比企時員(比企能員の息子)、北条時房(北条時政の息子、政子・義時の弟)は共に頼家の鞠会の常連です。父が政治的に対立する立場でしたが、息子2人は頼家に召し出されて蹴鞠を供にしました。
北条時房は本当に蹴鞠の名手だったようで、後に京で後鳥羽院にも披露しています。この話はまたその時が来れば詳述します。
他に鞠会のメンバーには源性という僧もいました。この人は「無双の算術者」と称された会計のプロで、上述した所領再分配の計算を担当しています。頼家政権の財務事務次官ですね。

愛好家を集めて鞠会を開いても、蹴鞠の本場はやはり鎌倉ではなく京です。
蹴鞠に熱中する頼家は、京の後鳥羽院に「蹴鞠に達者な人物を鎌倉に派遣してほしい」と申請しています。
「蹴鞠後進国」鎌倉のレベルアップのためには、トッププロによる補強が必要だったのです。
蹴鞠なのでサッカーで例えると、Jリーグになる前の住友金属(鹿島アントラーズ)がジーコを招聘したようなものだと思います(多分)。
頼家の申請は認められ、鎌倉での蹴鞠の修練は一層本格化し、百日の蹴鞠が行われます。
建仁元(1201)年9月7日、後鳥羽院に派遣された蹴鞠の名手・紀行景が鎌倉に到着し、以後、頼家の蹴鞠の師匠となります。

次回予告

幕府の話が続きましたので、次回は朝廷の話を。
本格的に動き始めた後鳥羽院の院政について。

余談

歴史教科書だと政治史と文化史のページが分かれておりますので、今回の話ですと栄西が源頼家や北条政子と同時代の人間だということはなかなか頭に入りません。
栄西の名前は同じページに載っている法然、日蓮、道元ら他宗の宗祖たちとセットで覚えてしまう子供たちがほとんどでしょう。
それだけでは歴史の理解は深まりませんし、何より面白くないですよね。
政治史と文化史が上手くクロスしないのは歴史教科書の問題点の一つだと思います。年表を頭に叩き込んでいれば理解できるといえますが、そんな子供は少数でしょうし、それは歴史=暗記科目という苦手意識を持つ子供を増やすだけです。
暗記だけでは歴史への理解は深まりません。
例えば栄西の二度の入宋経験についても「平清盛が日宋貿易を振興したことで、大陸との交流が盛んだったからだな」とイメージできる、これが歴史への理解であり、歴史教育の目指すべき地点だと思います。
以上、かつて歴史教科書に関係する仕事をしていた人間の独り言です。

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