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【いざ鎌倉(34)】公武交渉、将軍後継者問題解決にむけて

前回は将軍後継者問題で幕府首脳が頭を悩ませる中、頼家の遺児・公暁が鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮別当に就任した話を書きました。

今回はその続き。
将軍後継者問題への幕府の対応です。

源氏将軍家の男系男子

後継者不在に悩む鎌倉幕府。
今日の皇室も皇位継承問題を抱えていますが、これは皇室典範によって皇位継承権を認められた男系男子が3名しかいないことで今後の安定的な継承が不安視されていることはご承知の通り。

当時の鎌倉幕府も創設者・源頼朝の血を継ぐ男系男子は将軍の実朝を除いて3名しかいません。
1人目は源頼家の次男・公暁
2人目は同・四男の禅暁
この2人は前回も触れましたね。
実はもう1人いまして、3人目は頼朝が政子ではなく、妾に産ませた隠し子の貞暁。仁和寺で修行の後、高野山に登りました。実朝より6つ年上の異母兄ということになります。
名前でわかるとおり、3人全員が出家して僧となっていました。

ただ、2代将軍頼家を追放し、殺害したのが北条氏、その結果将軍になったのが実朝という経緯を踏まえれば、公暁と禅暁にとって実朝政権首脳部はみな親の仇のようなもの。

頼家の遺児2人を将軍にすることは将軍実朝にとっても執権・北条義時に取っても望ましいことではありません。
貞暁は頼朝の子ですが、政子が嫉妬から京に追いやって出家させた妾の子であり、何より将軍実朝にとっては兄。僧籍で子もいませんから後継者にする理由に乏しい。

あと頼朝直系ではありませんが、血縁の近い所では、頼朝の弟である源範頼阿野全成の子に男子がいます。さらに清和源氏で枠を広げれば政所別当の源頼茂、大内惟義、他に武田氏足利氏も源氏一門ですが、本人たちはともかく、実朝も北条氏も彼らを後継者候補と考えていた様子はありません。
ここは平賀朝雅を思い出して下さい。
北条時政が後鳥羽院の覚えめでたい源氏一門の平賀朝雅を擁立しようとしても御家人の支持は得られませんでした。
やはり源頼朝の血を引いていなければ源氏であっても将軍の適格者とは簡単に認められないわけですね。

こうして将軍実朝の子供が生まれない状況が続き、後継者問題が浮上しました。

「公武合体」構想

子がおらず、側室を迎える気もない将軍実朝。
いつまでも後継者不在では将軍の座を巡る争いに発展しかねません。
幕府は後継者問題の答えをいつまでも先延ばしにするわけにはいきませんでした。

悩んだ実朝と幕府首脳が選んだ答えは、源頼朝の男系子孫で将軍職を継承していくことを断念する道でした。次期将軍には後鳥羽院の皇子を迎え、実朝は将軍を辞してこれを後見する——これなら頼朝の血を引いていない将軍でも御家人たちは納得し、幕府の権威を維持、それどころか向上させることも十分に可能ではないか?
幕府は親王将軍による「公武合体」を後継者問題解決の答えとして選択し、動き始めることになります。

源氏将軍は3代将軍実朝の死によって終わったのではありません。
実朝による自発的な選択により、生前から終わることが決められていたのです。

北条政子・時房姉弟の上洛

建保6(1218)年1月13日、将軍・源実朝は権大納言に昇任します。和田合戦で一時官位昇任が止まった実朝でしたが、再び順調に官位が昇り始めます。
その2日後、1月15日、幕府は重要な決定を行います。それが北条政子・時房姉弟の上洛でした。
表向きは政子による熊野詣が目的でしたが、これは後鳥羽院の皇子を将軍に迎えるための交渉が真の目的でした。
蹴鞠を得意とし、公家社会の教養を知る弟・時房は政子の補佐役です。
2月4日、政子・時房姉弟は鎌倉を発ちました。
上洛した政子の交渉相手は後鳥羽院の乳母である卿二位兼子でした。将軍後継者問題は女性同士の非公式な形で議論が重ねられました。

公武交渉成立

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北条政子坐像(安養院蔵)

京滞在中、政子は卿二位兼子の推挙により従三位に叙せられました。出家した女性の叙位は極めて異例のことであり、後鳥羽院と朝廷がいかに政子を丁重に迎えたかがわかります。
幕府の申し出を拒否するのであれば、このような政子の扱いは必要のないことです。
政子による交渉は成功し、実朝御台所の姉である坊門局が産み、卿二位兼子が養育する冷泉宮頼仁親王、あるいは順徳天皇の同母弟である六条宮雅成親王のどちらかを鎌倉に下してもらう合意が成立しました。
後鳥羽院は政子に拝謁を許可しますが、政子は恐れ多いことであるとこれを辞退し、予定を切り上げて鎌倉への帰路につきました。
なお「政子」の名前はこの上洛で従三位に叙された時の記録上の名前で、それ以前の名前は不明です。つまり、この時点で既にこの世の人ではない源頼朝が「政子」と呼んだことは一度もないことになります。この後も「政子」と自身で署名した記録もありませんが、便宜上、教科書やその他書籍でも「北条政子」の名前で統一されています。

政子と卿二位兼子によって大枠では合意しましたが、細かい交渉や決め事がまだ必要だったのでしょう。弟・時房はしばらくの間、京に滞在しました。
時房は蹴鞠を好んだ先代将軍頼家の鞠会の常連でした。おそらくはこのことを知っていた後鳥羽院は時房に自身の鞠会への参加を許可し、時房は3日連続で蹴鞠を披露しています。
蹴鞠の「長者」の称号を贈られ、自身もレベルの高い技量を持つ後鳥羽院は時房の蹴鞠を何度も称賛したと伝わります。後に鎌倉に戻った時房はこのことに感激し、将軍実朝に喜んで報告しました。

なお、政子の交渉と並行して実朝は2月10日、近衛大将任官の要望を伝える使者を京に送りました。2日後の12日には「必ず左近衛大将に任じてほしい」という希望を伝えるための使者を改めて送っています。
右近衛大将と左近衛大将。右と左では左の方が格上です。右近衛大将は生前に源頼朝が任じられた官職であり、実朝の希望は「父を超えたい」という意志の表れでした。
後鳥羽院と朝廷はこれに応え、3月6日に実朝を左近衛大将兼左馬寮御監に昇任させました。
このとき、ついに実朝は官位において父・頼朝を超えたのでした。
父・頼朝は在京して職に見合った務めを果たせないことを理由に右近衛大将を辞任しています。在京することなくこれだけ高い官位に昇ったのは実朝が初めてのことですし、武家による朝廷官位が名誉職化していく初めでもありました。

将軍後継者問題は将軍生母・政子の上洛とその交渉によって解決し、朝廷と幕府の関係はこれまで以上に固く結びつきました。
実朝側近ではなく、政子が京まで足を運んで交渉に臨んだことで、北条氏も親王将軍を迎えることに同意していたと考えて良いでしょう。
後鳥羽院にとっても自身の皇子が将軍となって「忠臣」実朝がそれを補佐するのであれば、これまで以上に幕府に影響力を発揮できるようになりますから、反対する理由はありません。和田合戦の時のような京まで混乱が波及するような事態をより強く抑止できることになるので、後鳥羽院が理想とする平和で安定した秩序により近づくことになります。
しかし、実朝が望み、朝廷と幕府が合意したこの「公武合体」構想は幻に終わり、これより3年後、後鳥羽院と鎌倉幕府は軍事的に衝突することになるのでした。

次回予告

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将軍後継者問題解決のため「公武合体」路線で合意した朝廷と幕府。
後鳥羽院は自身の皇子を預けることになる実朝をこれまで以上に支援する。
実朝は盛大な左大将拝賀式を行い、その権威を大きく向上させるのであった。
そして、実朝は遂に武士として史上初めて右大臣へと昇る。
それは破滅へのカウントダウンでもあった。
次回、「鎌倉右大臣」。
この次も、サービスサービスぅ!

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