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【いざ鎌倉(16)】悪禅師・阿野全成の失脚

今回は本編16回。
年内更新は本日含めて3回を予定しています。

前回は越後城氏の乱でした。
いつもの半分ぐらいのアクセス数しかなく、マイナーな話題は厳しいなと感じました(苦笑)

建仁2年の京

建仁2(1202)年6月、源頼家の援助により、栄西が京都に建仁寺を建立します。

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建仁寺

幕府に招かれ、布教の中心を鎌倉に移していた栄西でしたが、頼家の後援を得て、遂に臨済禅の拠点を京都に設けることができました。
ただ、当初の建仁寺は天台・真言・禅の三宗兼学の寺院でした。
これは、旧仏教との軋轢を避けるための苦肉の策と考えられてきましたが、近年、兼学は天台密教の僧でもあった栄西の本心であったという説も有力のようです。
現在、建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山、京都五山第三位として多くの人の信仰を集めています。

7月23日、朝廷は源頼家を従二位・征夷大将軍に任じます。
父・頼朝が亡くなってからおよそ3年半が経っていました。
その間、朝廷は頼家が「鎌倉殿」として頼朝の事績を継承することは認めていましたが、征夷大将軍には任じてきませんでした。
頼家は家督を継承した時点で18歳でしたから、時を経てようやく一人前の武士・政治家となったことを朝廷にも御家人たちにも認められたと言えるかもしれません。

10月21日、後白河院と後鳥羽院を支え、土御門天皇の外祖父となって朝廷の政治の中心にあった「源博陸」源通親が急死します。

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源通親(内大臣兼右近衛大将)

その絶大な政治力から、自由に院政を執り行いたい後鳥羽院にとって通親は煙たい存在になっていましたが、その関係が断絶していたわけではありません。
和歌の名手でもあった通親は、死の前年に後鳥羽院に和歌所寄人にも選ばれています。

通親は『新古今和歌集』の完成を見ずして他界しましたが、その和歌は新古今集に採用されています。
通親が亡くなったことで、朝廷内には後鳥羽院に正面から意見を言えるような有力貴族は誰もいなくなりました。

頼朝最後の弟・悪禅師

源頼朝には源義朝を父とする9人の兄弟がいました。
建仁3(1203)年の時点でただ一人生存していたのが義朝の七男とされる阿野全成です。

阿野全成

阿野全成

兄弟9人を列挙してみましょう。

長男 源義平 鎌倉悪源太。平治の乱で敗れて斬首。
次男 源朝長 平治の乱敗走中に死亡。
三男 源頼朝 落馬の後、鎌倉で死亡。
四男 源義門 頼朝の同母弟とも言われるが若くして死亡。
五男 源希義 頼朝の同母弟。配流先の土佐国で平家に討たれる。
六男 源範頼 兄・頼朝への謀反の疑いで流罪。その後、配流先で殺害されたとされる。
七男 阿野全成 
八男 義円 平家との戦いで戦死。
九男 源義経 兄・頼朝と対立し、その後奥州藤原氏に討たれる。

ほとんどが戦死したか暗殺されたかで、頼朝を除き年老いて畳の上で死んだ者は誰もいません。

阿野全成は、父・義朝が平治の乱で平清盛に敗れたことで幼き頃に出家させられ、醍醐寺で僧侶として育ちました。
荒くれものであったようで、「悪禅師」と呼ばれます。
兄・頼朝が挙兵すると東国に下りますが、義経のように戦場で活躍したような記録は残っていません。政子の妹・阿波局と結婚し、鎌倉で頼朝の政務を支えたと考えられます。
妻が千幡(後の源実朝)の乳母となったことで、阿野全成も乳母夫として養育を担当します。

しかし、北条氏と縁戚となったことで、全成は頼朝死後の幕府における比企氏vs北条氏の派閥闘争に巻き込まれることになります。

阿野全成の失脚

建仁3(1203)年5月19日、阿野全成は謀叛の疑いにより突如将軍御所に拘禁されます。将軍・頼家による指示ですが、頼家を支える政権主流派の比企氏が主導したものです。

翌20日、頼家側近・比企時員が北条氏に対し、全成の妻で北条政子の妹・阿波局の身柄引き渡しを求めます。しかし、これは政子による必死の弁明により実現しませんでした。北条氏にとって一門の阿波局を政敵の比企氏に引き渡すなど威信にかけても認められなかったことでしょう。

6月23日、常陸国(茨城県)に流罪とされた全成は現地で殺害されました。
これにより、挙兵後の頼朝を支えた源範頼・阿野全成・源義経の3人の弟は全て政権内部の対立の末に命を落としたことになります。
7月16日には京にいた全成の息子・阿野頼全も殺害されています。
乳母夫として千幡を後見する阿野全成の死は、千幡を擁する北条氏を中心とした政権の非主流派にとって表面的には大きな打撃となりました。

北条時政、表舞台へ

全成の死により、千幡の乳母夫は北条時政が引き継ぐこととなりました。
これまで何度も書いてきましたが、北条時政は頼朝の舅、政子の父として相応の扱いは受けていましたが、政治の実権と結びつくポストとはずっと無縁でした。

実権のない相談役のようなポジションと言えば良いでしょうか。
頼朝の生前から一貫して干され続け、孫の頼家が将軍になっても政権を支えたのは比企氏でした。
頼朝死後の権力闘争における北条氏の中心は時政ではなく、頼朝の後家・政子です。
平清盛の死後に後家の時子が平家一門で強い発言力を持ったように、当時の武家社会では棟梁の妻が亡き夫の権力を引き継ぐことは珍しいことではありません。

有力な将軍後継候補である千幡の乳母夫となったことで、時政はこの時初めて幕府の権力に近づき、権力闘争の中心人物の一人となります。

本来、阿野全成の失脚は頼家と比企氏に有利に働くはずでしたが、皮肉なことに権謀術数に長けた政治家・北条時政を表舞台に立たせることになるのでした。

次回予告

いよいよ頼家政権における権力闘争の最終ラウンドですが、源通親の人物伝を一回挟みます。
阿野全成は残念ながらこれ以上書くネタがないので人物伝はありません。

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