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【いざ鎌倉(6)】源頼朝に切り崩された甲斐源氏

まず、歴史に詳しい人なら「甲斐源氏」と聞くと「武田」、「武田信玄」が思い浮かぶことでしょう。
今回は鎌倉幕府草創前後の武田氏について。

下記の続きです。

源範頼の人物伝も合わせてどうぞ。

独立勢力 甲斐源氏

源平の戦いがはじまった時、武田家の当主は4代目となる武田信義という武士でしたが、この人は武田家の祖・新羅三郎義光の曾孫にあたります。
平治の乱で源義朝が討たれ、河内源氏は没落しますが、都の騒乱とは距離を置いていた甲斐源氏は力を蓄えて源平の争乱を迎えます。

歴史教科書をはじめ、源平合戦の勢力図の多くで甲斐源氏は源頼朝の勢力と同じ色に塗られてしまうのですが、これはやや実態と異なっています。

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赤=平家 青=木曽義仲 緑=源頼朝 黄=奥州藤原氏

治承4(1180年)、甲斐源氏も以仁王の令旨を受け取り挙兵しますが、これは源頼朝に命じられたわけでもなく呼応したわけでもない独自判断による挙兵です。
つまり甲斐源氏は源頼朝、木曽義仲とも異なる勢力である「第三の源氏」なのです。

水鳥の羽音を源氏の奇襲と勘違いして平家が戦わずに兵を引いた逸話で有名な源平の富士川の戦いも、平家と対陣していたのは頼朝の軍勢ではなく、甲斐源氏だったことが近年では通説になっています。
甲斐源氏と頼朝の関係は、この時点では主従関係ではなく、対平家の同盟関係にあったと考えられています。
甲斐源氏が東海道の駿河と遠江を実力で勝ち取り勢力下としたことで、頼朝は京に攻め上るのではなく、関東で力を蓄えることを優先したとも言われます。

緩やかな連合体・甲斐源氏

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武田菱

ただ、甲斐源氏は血縁で繋がっていてもそれぞれの家の独立性が強く、強固な結束した家ではなく、緩やかな連合体として一門を形成していました。
武田信義の弟・安田義定は自身の判断で隣国・信濃の木曽義仲の上洛戦に参加し、軍勢を京へ進めました。
また別の弟・加賀美遠光、信義の四男・石和信光らは頼朝に接近して信頼を得ることに成功し、後に鎌倉幕府の中で地位を築きます。
このそれぞれの家の独立性の強さ、頼朝と義仲に挟まれた地理的状況が甲斐源氏が大きな勢力となれなかった要因といえるでしょう。

寿永2(1183年)、後白河院と木曽義仲の関係が悪化する中、頼朝は朝廷から義仲追討令を受け取り、東国の軍事指揮権を得たことで頼朝と甲斐源氏の力関係は明確となります。徐々にその関係は対等の同盟から主従へと変化していくことになります。

頼朝に切り崩される武田氏

頼朝が木曽義仲追討のために弟の範頼と義経を派遣すると、それまで義仲と行動を共にしていた安田義定も含め、甲斐源氏はこれに参加。
その後の平家との戦にも加わっていきます。

しかし、元暦元(1184)年6月16日、木曽義仲との戦い後、鎌倉に呼ばれた武田信義の嫡男・一条忠頼が酒宴の最中に突然頼朝の指示で殺害されます。
「傲慢で世を乱す」というのが理由とされますが、傲慢とされる態度が事実なら甲斐源氏と源頼朝の関係を対等と考えるか従属と考えるかのズレがあったことを感じさせます。
子を殺され、武田信義は隠居し、5代当主には親頼朝派だった信義の四男・石和信光が就きます。
駿河守護も武田信義から北条時政へと交代となり、武田氏は鎌倉幕府へと組み込まれていきます。

甲斐源氏の猛将・安田義定

頼朝に切り崩される甲斐源氏の中で、独立して強い力を維持し続けたのが武田信義の弟・安田義定です。
義定の強みと特徴は、木曽義仲の上洛に参加し、京都から平家を追い払った褒賞として後白河院より直接、遠江守に任じられたことにあります。
頼朝と幕府を経由せずに任官したことで、頼朝に従いつつも、朝廷にも従う合法的な両属状態を確立します。

頼朝は御家人が直接朝廷の官職に任じられることを禁じました。
これは、朝廷が御家人の序列を乱したり、官職を使って切り崩すことを防ぐ意味がありました。
ただ、義定の場合は臣従した時点で任官していたわけですから、これを無理矢理解官するわけにはいきません。
頼朝は、義定が朝廷に遠江守に任じられていることを追認するように遠江守護に任じています。(国守は朝廷の官職、守護は幕府の役職)

元々は頼朝と対等だった甲斐源氏の有力者、後白河院から直接任じられた遠江守、ということで義定は頼朝配下でかなり特殊な立場であり、鎌倉に置かれた義定の屋敷は将軍御所の隣にあったともいわれます。
頼朝からすれば、義定は明らかに扱いづらい立場の武士だったはずですが、庶流の安田氏を優遇することは甲斐源氏を分裂させておくには効果的だったことでしょう。

安田義定も頼朝を利用することで勢力を伸ばします。
木曽義仲と手を切ってその討伐戦に参加し、平家、奥州藤原氏との戦いにも従軍しています。
義定の息子・義資も越後守に推挙されています。

建久元(1190)年、頼朝は後白河院を通して、義定を遠江守から下総守に遷任しますが、翌年には義定は遠江守に還任します。
頼朝の思惑は、あまりに特別な立場にいる義定を地盤となっていた遠江から切り離して力を削ぐことが目的だったと考えられますが、1年にして頼朝が撤回せざるを得なかったわけですから、安田義定がいかに頼朝配下で別格だったかがわかると思います。


ラブレターをきっかけに滅ぶ

ここでようやく本編第5回に繋がります。

戦争の時代は終わり、自身の子孫で安定的に幕府を継承していくことが重要となった頼朝にとって、実戦経験豊富で同じ源氏の有力者である安田氏は邪魔な存在でしかありません。
前回解説した源範頼とよく似ていますね。本人に将軍になる意思があるかないかは関係ありません。
誰かに担がれる可能性がある
だけで頼朝にとっては潜在的な脅威なのです。

かつて義定を遠江守に任じた後白河院は世を去りました。
これまでは扱いづらい存在でありながらも源氏一門の重鎮として扱ってきた安田氏の排除を頼朝はついに決断します。

建久4(1193)年11月28日、義定の子・安田義資が永福寺薬師寺堂供養の際に女房に艶書(ラブレター)を送ったことを梶原景時に密告され、翌日処刑されます。
いまなら会社行事の帰りに社長の秘書をLINEでデートに誘ったら翌日クビになる感じでしょうか?
無茶苦茶ですね。
単に処刑するに止まらず、鎌倉で晒し首にするというあまりに重い処罰でした。
父の義定も所領を没収、遠江守護職も解任され、隠居します。

ただ、これで済まさないのが源頼朝という男。
翌建久5(1194)年、安田義定は謀反の罪で殺害されます。
失脚しても暗殺部隊がやってくる鎌倉時代あるあるです。

幕府の中で特権的地位を築いた安田義定は息子の一通のラブレターを理由に滅亡へと追い込まれました。
安田義定の死により、独立勢力としての甲斐源氏という立場は完全に過去のものになります。

その後の甲斐源氏

武田氏本家は先に述べたとおり武田信義の四男・石和信光が継承し、武田信光となり、後に承久の変で幕府の東山道軍の大将軍を務めます。
そして、その血統は戦国時代の16代・武田信玄へと続いていきます。
信光とともに一貫して親頼朝派だった武田信義の弟・加賀美遠光の子孫からは小笠原氏南部氏といった庶流が発展しました。
こちらは武田氏本家滅亡後も存続し、江戸幕府の大名家として明治維新を迎えることになります。

次回予告

安田氏の滅亡で1193~1194年の部分を書きましたが、今回は実質、甲斐源氏についての番外編でした。

次回は「源頼朝、5年ぶりの上洛」です。

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