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【いざ鎌倉(5)】失言か?クーデターか?源範頼の失脚

今回は曾我の仇討ちの後の政変を解説します。
前回を読んだ前提の解説となっていますので、未読の方はまず前回の曾我の仇討ちを頭に入れてから今回をお読みください。

口は災いの元?

建久4(1193)年5月28日の曾我兄弟の乱入により、富士の宿営地は大混乱となります。
鎌倉には「頼朝討ち死に」の報が届き、頼家の巻狩での雄姿の報には無反応だった政子もさすがに狼狽します。

巻狩で将軍親子と多数の御家人が鎌倉を離れる中、留守を預かっていたのが頼朝の弟・源範頼でした。

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範頼は、源平の戦いでは鎌倉を離れられない頼朝に代わり、西国に出陣した源氏一門と幕府の重鎮です。安倍、菅内閣における麻生副総理兼財務相のようなポジションでしょうか。

その範頼が、うろたえる義姉の政子を落ち着かせるためにこう言います。

「範頼 左(タスケ)テ候へバ、御代ハ何事カ候ベキ」
(範頼がいますから幕府は大丈夫です)

鎌倉に伝わった「頼朝討ち死に」は誤報で、頼朝は無事に鎌倉に帰還しますが、留守中の範頼の政子への発言を頼朝は問題視します。

範頼に謀反の疑いあり。

「お前何様なの?将軍になりたいの?」という話でイチャモンもいいところですが、兄・頼朝を一貫して支えてきた範頼は突如として政治的危機に立たされます。


建久4年常陸政変

常陸国(茨城県)でも曾我兄弟の仇討ちと連動して政変が起こります。

常陸の御家人・多気義幹が謀反の疑いで所領を没収されます。
富士の騒動の報が届いた際、同じ常陸の御家人・八田知家が「ともに鎌倉に駆け付けよう」と多気義幹に声をかけますが、義幹はこれに応じず、城に立て籠もったというのが謀反と判断された理由でした。

しかし、これは声をかけた八田知家の陰謀だったといわれます。
「八田知家が多気義幹を討とうとしている」という噂が事前に流されており、安全のために義幹が同行を断ったのを上手く罠にはめたというのが真相のようです。

6月22日、幕府は八田知家と多気義幹の双方を召し出して裁判を開きますが、義幹は兵を城に集めたこと自体は事実であり、反論は「意味不明」と聞き入れられず、謀反の疑いを晴らすことはできませんでした。
八田知家は頼朝の父・義朝の郎党として保元の乱にも参陣したとされ、頼朝の覚えめでたい武士、一方の多気義幹は元々は平家の武士、という立場の差が両者の対立と訴訟の結果にあったといえるでしょう。

所領を没収された多気義幹のその後の行方は明らかではありませんが、幕府によって殺された可能性が高いと思います。
この年の12月、義幹の弟・下妻弘幹は「北条時政に恨みを抱いている」を理由に八田知家に殺されていますので、兄の義幹も殺害されたと考えるのが自然でしょう。


範頼の失脚

8月2日、謀反を疑われた源範頼が頼朝に忠誠を誓い、潔白を証明するための起請文を提出します。

曾我の仇討ちが5月28日ですので、「失言」から2か月経っての提出は少し遅いように思います。
この点から謀反を疑われたのは単なる「失言」ではない、何らかの別の理由がある可能性を感じさせます。

とにかく頼朝が範頼を許すことはありませんでした。
10日、範頼の腹心・当麻太郎が頼朝の寝所の床下に潜んでいる所を捕らえられて完全に万事休す。
「起請文についての返事がなく、範頼様が苦悩しているので様子を伺いに来た」と説明しますが、当然納得は得られず、17日に範頼は伊豆へと流されます。
翌18日、範頼の郎党は結城朝光、梶原景時らによって討たれました。

20日には曾我兄弟の異父兄・原小次郎が範頼謀反に関わった罪で処刑されます。
曾我兄弟の仇討ちと範頼失脚の関連を感じさせます。

そして24日、頼朝挙兵以来の古参の御家人である大庭景能、岡崎義実が突如出家します。
具体的な理由は不明ですがタイミングからしてこちらも範頼の失脚と何らかの関係があると考えられます。

なお、伊豆に流された後の源範頼については、幕府の史書『吾妻鏡』に記載がなく不明ですが、やはり殺されたのでしょう。
失脚した後に、暗殺部隊が襲ってきて殺害されるのは鎌倉幕府でよくある話です。

1193年-建久4年に一体何があったのか?

前回から今回にかけて、富士の巻狩、曾我兄弟の仇討ち、常陸の政変、源範頼の失脚と見てきました。
何となく相互の関連性を感じさせますが、全体像ははっきりしません。
史料もなく、真相は謎ですが、もう一度整理しつつ、何があったのか考えてみたいと思います。

まずは幕府による3度の巻狩。
平家も奥州藤原氏もすでに滅び、軍事的に対立する「仮想敵」は表向き存在しないにもかかわらず、立て続けに3度の軍事演習。
ここで幕府の軍事力を見せつけなければならない相手は、おそらく後白河院という絶対的存在を失った朝廷ではないでしょう。
やはり幕府の内部、嫡子・頼家が頼朝後継となることに納得しない一派ではないでしょうか。とりあえず「源範頼派」としておきましょう。
これなら嫡子頼家の晴れ舞台が用意され、後継者であることをアピールする必要があったことも理解しやすい。

では、曾我の仇討ちは?
これもその後の政治の流れを見れば、単なる親思いの兄弟の仇討ちと片付けられません。
実戦経験の全くない若い兄弟が、巻狩の宿営に忍び込んで暗殺を成功させ、さらに百戦錬磨の御家人10数人にも死傷者が出たというのは兄弟には協力者がいた可能性が高い。
富士の巻狩を準備し、曾我時致の烏帽子親(後見人)を務めた北条時政という存在がここで浮かび上がってきます。
時致の「時」は時政から一字拝領したもの。
そして曾我兄弟に討たれた工藤祐経は伊豆の御家人で、北条時政にとっては出世のライバル的存在。
兄弟の仇討ちを後援する動機は十分にあるように思います。

そして、常陸の政変。
謀反を疑われた多気義幹の弟・下妻弘幹が「北条時政に恨みを抱いている」を理由に処刑されたことは前述したとおり。
曾我の仇討ちをプロデュースした北条時政と八田知家が連携して仕掛けた政変を感じさせます。

最後に源範頼の失脚。
源頼家を頼朝の後継者と認めないグループ、おそらくその中心は範頼失脚後に出家している大庭景能、岡崎義実と考えられます。
彼らが範頼を担いだのはなぜか?
頼朝挙兵以来の古参で戦場を駆け巡ってきた彼らからすれば、何の実戦経験もない小僧の頼家を棟梁には認められないと考えても不思議ではないように思います。

じゃあ誰なら良いかと考えたときに浮上する源範頼。
頼朝は平家との戦いの際、鎌倉から動かなかった。
義経はすでにいない。
頼朝の代官として源氏一門で誰よりも御家人たちと多くの戦場をともにしてきた範頼は「実戦経験」というハードルをクリアしており、一定の支持は集めたことでしょう。
範頼本人に将軍になりたいという欲があったかは疑問ですが。

では、曾我の仇討ちを後援した北条時政は源範頼派なのでしょうか?
これは考えられないですね。
頼家と範頼、時政にとって次に将軍になってメリットが大きいのは孫の頼家なのは間違いない。
時政はたしかに頼朝政権では大したポストについていませんでして、はっきりいえば干されているのですが、それでも政子の父として将軍の血縁者としての扱いはされています。
範頼が将軍になればそれすら失うわけですから、何のメリットもない。
実際、時政は範頼失脚後も処分されていませんし、無関係なのでしょう。


範頼失脚の真の理由は?

じゃあ、範頼はやはり失言で失脚したかといえば、さすがにそんな単純な話ではないでしょうね。
流れからすると曾我の仇討ちの騒乱の責任を取らされたのではないでしょうか。

私は、曾我の仇討ちをプロデュースしたのは北条時政であり、範頼は無関係と考えます。
ただ、頼朝の命まで危うくなる大騒動になってしまったのは時政にとって想定外であり、範頼に罪をなすり付けたというのはありそうです。
あるいは、全てを知った上で我が子に幕府を継承させたい頼朝がこれをきっかけに範頼派の弾圧に踏み切ったか。

とにかくこの年、頼朝の弟・源範頼という有力な後継候補の一人が姿を消し、頼家、もしくは千幡という頼朝の子息で今後も幕府を継承していく体制が固まりました。


次回予告

番外編を一回挟みます。
「人物伝 源範頼」。
今回失脚した源範頼をもう少し掘り下げます。

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