【いざ鎌倉(38)】四人目の適格者、三寅と尼将軍
前回の振り返り。
源実朝暗殺により、将軍不在となった鎌倉幕府。
次期将軍が決まらぬ中、実朝の従兄弟の阿野時元が挙兵します。
幕府は容赦なくこれを討ち取り、源氏将軍にNOの姿勢を示しました。
幕府は後鳥羽院の皇子を将軍に迎えようとするものの、後鳥羽院からは「保留」の意向が示され、次期将軍は決まりません。
実朝亡き幕府に不信感を持つ後鳥羽院と、幕府存続のために新将軍下向を必要とする北条氏との駆け引きが始まります。
後鳥羽院による駆け引き
次期将軍として親王の即時下向を希望する幕府。
実朝亡き幕府を信頼しない後鳥羽院はこれを承諾しません。
建保7(1219)年3月8日、次期将軍が決まらぬ中、京より実朝の弔問の使者として藤原忠綱が鎌倉に下向してきました。
幕府としては皇子下向を奏請している最中。
表向きは弔問でも、北条政子・義時姉弟は使者の忠綱から何かしら後鳥羽院の意向が伝えられると考えていたことでしょう。
しかし、弔意の後に忠綱が述べたのは幕府にとって思いもよらぬ話でした。
「摂津国(現・大阪北部)にある長江と倉橋、2つの荘園の地頭を交代するように」
この2つの荘園は後鳥羽院が「舞女」から愛妾に引き上げた伊賀局(亀菊)に与えた所領であり、その荘園で治安維持と徴税権を幕府に認められた地頭は北条義時本人でした。
両荘は摂津国豊島郡の神崎川と猪名川が合流する付近であり、京と大阪湾・瀬戸内海を繋ぐ水運の要衝です。
幕府にとっては突然の後鳥羽院の指示の真意を探るならば、
「皇子を下向させて欲しいのなら荘園2か所について義時の地頭職を交代するぐらいの誠意を見せろ」
ということであり、後鳥羽院は、実朝亡き鎌倉幕府がこれまで通り自分に忠誠を誓う存在なのか試すとともに、日本国の真の統治者は皇室の家長「治天の君」であることを幕府に再認識させるという行動に出たのでした。
幕府の決断と公武協調の終焉
3月11日、帰洛する藤原忠綱に対し、幕府側は後鳥羽院の指示について「追って返答する」と伝えました。
その後、北条政子、義時、時房、大江広元ら幕府首脳部は評議に入り、下記の結論を出しました。
幕下将軍ノ時、勲功ノ賞ニ募リテ定補セラルノ輩、サセル雑怠ナクシテ改メガタシ
(=源頼朝公が恩賞として地頭に任じた者は、適切な理由なく交代させられない)
幕府は後鳥羽院の指示を拒否することを決断しました。
しかも、幕府は単に拒否する以上の強い姿勢を示します。
3月15日、幕府は政子の使者として北条時房に兵1000名を率いて上洛させ、将軍下向の交渉を担当させることにしました。
幕府の姿勢からは、地頭交代と将軍下向を別問題として扱う、取引材料とはしないという意思を見ることができます。
幕府が後鳥羽院の指示を拒否したのは、地頭の任命が幕府の存在意義に関わる問題だからです。
反乱軍としてスタートした幕府は、戦争に勝って実効支配した平家方の所領において配下の武士たちを地頭に任命し、功績に報いました。
いわゆる「御恩と奉公」ですね。
平家との戦い、謀叛人・源義経の追跡を経て、幕府の地頭任命は朝廷から事後承認を得ることに成功し、公的な権限となりました。
朝廷を介さずに武士たちの経済基盤を保障する、これこそが鎌倉幕府の最大の強みであり存在意義でもあります。
この幕府の権限に口出しをされては、幕府と御家人の結びつきに綻びが出ることになりかねません。
聡明な後鳥羽院はこのことをよく理解していたでしょう。ここにメスを入れれば、幕府を自分が支配することができるかもしれない、と。
しかし、幕府はいかに後鳥羽院からの指示でも幕府の根幹に関わる要請であり、容認するわけにはいかず、軍勢1000名を上洛させて軍事的に威圧する行動で拒否を示しました。
後鳥羽院と源実朝によって築かれた公武協調路線は、これにて終焉を迎えました。
幕府の圧力と後鳥羽院の記憶
文治元(1185)年、後白河院が源義経に頼朝追討の院宣を下した時、1000名の兵を率いて上洛し、院宣を撤回に追い込んだのは北条時政でした。
それから34年、同じ兵1000名を率いて上洛してきたのは時政の息子・北条時房でした。
時房は、前年にも姉・政子に同道して上洛し、後鳥羽院に蹴鞠を披露しています。
幕府での地位、後鳥羽院との関係、京文化への理解等の点から、時房は幕府にとっては最適の使者だったと言ってよいでしょう。
幕府の強硬な対応に後鳥羽院も驚いたかもしれません。
ただ、後鳥羽院の朝廷は、34年前、戦乱と権力抗争により弱体化し、幕府の圧力に屈した朝廷とは異なります。
後鳥羽院による強力なリーダーシップにより政治は安定し、皇室・朝廷の伝統的儀礼も復活。その権威を大きく向上させていました。また、従来の北面の武士に加え、西面の武士も新設され、軍事力も強化されています。
後鳥羽院は幕府の軍事的圧力に屈することはなく、皇子下向を認めることはありませんでした。
次期将軍決まる
3月27日、先月討たれた阿野時元の弟で駿河国実相寺の僧侶・道暁が幕府によって討たれました。
朝廷との皇子下向の交渉が難航していても、やはり幕府には源氏将軍の継続という選択肢はなかったことを意味します。源氏の血を引く道暁は、後継者を巡る争いを未然に防ぐために粛清されました。
後鳥羽院と幕府の駆け引きが続く中、建保7年4月12日、建保は承久へと改元され、承久元年となりました。
朝廷と幕府の膠着状態を動かしたのは後鳥羽院でした。
皇子下向を断固拒否する姿勢を貫いていた後鳥羽院でしたが、関白摂政の子であれば要望に応じられなくもないとの意向を示唆しました。
この意向を受けて幕府の重鎮・三浦義村が提案したのが、源頼朝の妹の孫である左大臣・九条道家の男子(つまりは頼朝の妹の曾孫)でした。
北条時房は九条家と交渉し、道家の三男で2歳になる若君・三寅を鎌倉に下向させる約束を取り付けることに成功しました。
「寅年・寅月・寅刻」生まれなので三寅。後の4代将軍、藤原(九条)頼経です。
後鳥羽院と幕府の駆け引きは、双方の妥協により「摂家将軍」として決着しました。
(坂井孝一『承久の乱』より引用)
九条家と西園寺家
九条家自体は、幕府に不信感を持つ後鳥羽院に配慮し、三寅下向にあまり乗り気ではなかったともいいます。
一方で、この時、順徳天皇の皇太子・懐成親王の母・中宮立子は九条家出身(三寅の叔母)であり、三寅が下向すれば次期天皇と次期将軍が揃って九条家の血脈となるという局面でもありました。このことから九条家、あるいは幕府支配を目論む後鳥羽院も三寅下向に積極的であったという見方もあります。
「後鳥羽院による九条家を介した公武合体策」という見方は魅力的ではありますが、やはり私は妥協の産物であり、後鳥羽院も九条家も渋々三寅下向を承諾したと考えるのが適切という気がしています。
ただ、明らかに朝廷側で三寅下向に積極的に動いた人物もおり、公家の西園寺家の実質的な祖である西園寺公経です。
三寅の祖父・西園寺公経
公経は母方の祖父として三寅の養育を務めており、幕府側との交渉の中核を担ったと見られています。三寅が鎌倉へ下向する際には、西園寺家の関係者が多数従者として付き従いました。
公経以後、西園寺家は朝廷・幕府間の連絡役である関東申次を世襲し、鎌倉幕府が滅亡するまで親密な関係を続けました。明治になって内閣総理大臣・西園寺公望を排出したことでも知られますね。
次期将軍に決まった三寅は頼朝の妹の曾孫であると同時に、頼朝と連携して朝廷で権勢を誇った九条兼実の曾孫でもあります。兼実は、摂関政治の全盛期を取り戻すことを目指しましたが、頼朝が娘を入内させる意向を示したことで協力関係は解消され、失脚しました。
九条家から三寅が次期将軍として下向することになり、幕府と九条家は再び深く結びつくことになりました。
なお、完全に余談ですが現在の九条家の当主・九条道成氏が本年4月1日、明治神宮の宮司に就任されました。
尼将軍
次期将軍が決まると、幕府は迎えのために北条泰時、三浦義村らを上洛させました。
交渉に当たった北条時房も加わり、迎えの武士と供奉する貴族らを引き連れた三寅一行が京を出発したのは6月25日、鎌倉に到着したのは7月19日でした。
下向に当たり、後鳥羽院から三寅に対し、刀剣と馬が下賜されました。後鳥羽院がこの下向を、心から満足、祝福していたとは思えませんが、とりあえずの体裁は整えたということでしょう。
なお、三寅はこの時点においては、あくまでも「次期将軍予定者」であり、将軍には任じられませんでした。これは後鳥羽院の反幕府的感情によるものではなく、単に2歳という年齢が要因だろうと思います。
三寅、後の藤原(九条)頼経
鎌倉に到着した三寅は北条義時邸に入り、幼い三寅に代わって政子が将軍職を代行することになりました。
良く知られる「尼将軍」の呼称は、この政子が将軍職を代行した時期のことを言います。
前近代においては歴代将軍に数えられている史料もあるのですが、天皇(院)から将軍宣下を受けたわけではないので、いまの歴史教科書などでは勿論、政子は将軍に数えられていません。ただ、幕府の正史『吾妻鑑』では朝廷の意向とは無関係な幕府内の棟梁の地位である「鎌倉殿」に数えられており、これはその通りと考えて良いと思います。
今日の話で例えるなら、党内の選挙で選ばれる自民党総裁には就任したが、天皇陛下に任命される内閣総理大臣には就任しなかった(できなかった)という感じですね。
ここは「鎌倉殿」と「征夷大将軍」を別に考える視点が必要です。
なお、三寅に将軍宣下があり、正式に征夷大将軍となるのは北条政子・義時姉弟がともに他界した後の嘉禄2(1226)年のことであり、7年後のこととなります。
形式的にはそれまで将軍不在が続きます。
交渉の勝者
実朝政権時に公武で合意した「親王将軍」は結局、この時実現しませんでした。
しかし、北条氏としては必ずしも「親王将軍」でなければならないわけではありません。
北条氏にとって重要な条件は、「他の御家人が取って代わる存在を擁立できない権威ある将軍」です。この条件を脅かすから源頼朝の甥や孫は徹底的に排除されました。
三寅は、摂関家出身で源頼朝の妹の曾孫という権威と正統性を持っていました。これに代わる権威を持つ将軍候補を他の御家人が用意することは実質的に不可能です。
「摂家将軍」は公武間の妥協の産物でしたが、北条氏が現状の権力を維持する上では十分な結果でした。
一方、後鳥羽院としては武力で恫喝してくる幕府のために朝廷が将軍を用意することは、例えそれが自分の皇子ではなく、九条家の子であっても不本意であったでしょうし、要求した地頭交代も呑ませることができませんでした。
協調から対立へと変化した中での公武交渉は、幕府側がやや優勢という結果で終えたと言えるでしょう。
次回予告
幕府の次期将軍は決した。
しかし、将軍の地位を巡る争いは続き、その戦火は大内裏を炎上させる。
満を持して発動する大内裏再建計画。
それは後鳥羽院による朝廷儀礼復古の最終段階となるはずであった。
増税、抵抗、苛立ち。
この計画の先に後鳥羽院が待つものとは……
次回、「天才・後鳥羽上皇、理想の美しき世界 その挫折」