見出し画像

【いざ鎌倉(37)】将軍、不在

前回、前々回と番外編が続きましたが、今回から本編に戻ります。
実朝暗殺事件の続きですね。

将軍実朝の突然の死に、幕府は動揺します。
将軍、不在。
次の将軍は後鳥羽院の皇子を迎えることは後鳥羽院・実朝で合意されていましたが、皇子が下向する前に実朝は命を落としてしまいました。
実朝の死は後鳥羽院と朝廷にも大きな影響を与え、公武関係は新たな局面へ進むことになります。

今日で連載37回ですが、あと3年分の出来事を書いたら完結ですのでいよいよ最終章ですね。多分、本編は45回前後で完結かなと。

動揺する幕府

建保7(1219)年1月27日、鎌倉幕府3代将軍にして右大臣・左近衛大将・左馬寮御監、源実朝薨去。
幕府は創設者である源頼朝を上回る高位高官に昇ったリーダーを失いました。
これにより御台所をはじめとし、大江親広、長井時広、安達景盛、二階堂行村ら100名近くが出家したと伝わります。
頼朝の死の際と比較して圧倒的多数の御家人の出家は将軍実朝の存在感の大きさを示しているといえるでしょう。

1月28日、実朝は勝長寿院に葬られ、29日から公暁の協力者の捜査が始まりました。
2月1日、公暁の協力者の供僧3名が処罰されました

幕府首脳部は将軍不在の非常事態解消のために動き始めます。
後鳥羽院からの信任も厚かった実朝の代わりを、武士の中から用意することは簡単ではありません。
北条氏にとっても「将軍の縁戚」という立場を失った以上、幕政の主導権を維持するには「源頼朝の直系と同等以上の権威を持ち、北条氏だから担げる将軍」を擁立しなければなりません。勿論、伊豆の田舎武士でしかない北条氏が将軍になるのは論外。実力で上回っていても、格では他の御家人と差がありません。
結局、政子が自ら京で交渉を手掛け、実朝が生前に望んだ後鳥羽院の皇子を将軍に迎える以外に北条氏にも選択肢がありませんでした。

訃報、後鳥羽院に伝わる

実朝薨去を京に知らせる使者は事件翌日の1月28日に鎌倉を発ち、2月2日に京へ到着しました。
右大臣拝賀式に参列するため下向していた公卿らが京に戻ったのが2月5日であり、事件1週間後には京にも実朝殺害の詳細が伝えられていたことは間違いありません。

このとき、後鳥羽院は京を離れ、離宮(別荘)の水無瀬殿(大阪府三島郡島本町)に滞在しており、その場で訃報を耳にしました
おそらく多大なる衝撃を受けたことでしょう。
華麗な牛車や装束を実朝のために用意し、近臣を多数鎌倉へ下向させていた後鳥羽院が待ち望んでいたのは参列者からの盛大な拝賀式の土産話だったはずです。
しかし伝えられたのは晴れの場における実朝の悲惨な死。
後鳥羽院と実朝は生涯一度も顔を合わせることがありませんでした。
それでも右大臣にまで引き上げた実朝は、後鳥羽院にとって東国の統治を安心して任せられる忠臣でした。

2月6日、京に戻った後鳥羽院は実朝のために祈祷を行っていた陰陽師を全て解任しました。大切な忠臣を守れなかった無能どもは必要ないと言わんばかりの厳しい対応です。
同時に騒然とする在京御家人たちの鎮静化に努めました。和田合戦のときも同じようなことがありましたが、鎌倉で非常事態があったからといって「いざ鎌倉」で一斉に京を離れられては治安対策上、朝廷は困ってしまうわけですね。
御家人たちの武力は、京の治安維持に必要不可欠となっていました。

幕府の側も2月14日に伊賀光季、2月29日に大江親広を京都守護に任じて上洛させ、京の安定に注力しました。

阿野時元の挙兵

2月13日、幕府は将軍下向を後鳥羽院に依頼する使者を京へ送ります。
派遣されたのは二階堂行光
朝廷についての理解が深い文官であり、政所別当という幕府首脳の一人が送られました。
幕府にとっての重大事であり、宿老たちが連署した添状を持参しての上洛となりました。

将軍不在の幕府に早速、騒動が起こります。
行光が鎌倉を発って2日後の2月15日、源頼朝の甥・阿野時元が駿河国の山中に城を構え、兵を集めているとの一報が鎌倉に届きます。
阿野時元は、頼朝の弟の「悪禅師」阿野全成と北条政子・義時の妹である阿波局の間に生まれた子であり、清和源氏と北条氏の血を引いた血統的には申し分のない将軍候補でした。

時元は天皇から宣旨を賜って東国を支配する計画であったと『吾妻鑑』は伝えます。

政子・義時姉弟はこの事態に迅速に対処し、金窪行親ら御家人を駿河へと派兵し、22日には時元らを討ち取り、謀反を鎮圧しました。

ただ、これは将軍に名乗りを上げそうな源氏への幕府の粛清であり、阿野時元は身の危険を察して自衛のために兵を集めただけという話のような気もしますが……

ただ、阿野時元は政子・義時姉弟の甥なのですが、そんなことは無関係のように全く迷いも容赦もない幕府の厳しい対応からは、
①頼朝直系以外の源氏の権威を認めないこと
②実朝政権の構想を継承して源氏以外から4代将軍を迎えようとしていたこと
➂源氏の血統を継ぐ男系子孫は今後の幕府に邪魔な存在と考えていたこと
この3点は間違いなかろうと思います。

後鳥羽院の不信

画像2

後鳥羽院

二階堂行光を使者とした幕府からの将軍下向の奏請は閏2月1日、後鳥羽院に伝えられ、審議が行われました。
閏2月4日、後鳥羽院が下した結論は、
「冷泉宮か六条宮、どちらかの親王を近い将来下向させるが、それは今すぐにという話ではない」
というものでした。
つまりは保留、計画の凍結。

後鳥羽院の皇子を将軍として下向させることは、前年に政子が上洛した際に後鳥羽院も了解していたと考えられます。
突如将軍不在となり、幕府にとって親王下向が急ぎの要請であることは、後鳥羽院は百も承知だったでしょう。
しかし、後鳥羽院は合意の履行について今はその時期ではないと答える。
後鳥羽院は明らかに態度を変えました。
この対応は後鳥羽院の幕府への不信感の現れ以外の何ものでもないでしょう。
後鳥羽院が皇子下向を快諾したのは、次期将軍となる皇子を実朝が後見人として支えるという体制であったから。
後鳥羽院が信頼したのは源実朝個人であり、鎌倉幕府ではなかったのです。

「イカニ将来ニコノ日本国二ツニ分クル事ヲバシヲカンゾ」(『愚管抄』)
(=どうして将来この日本国を2つに分けるような対応をしようか)

後鳥羽院は、将来、幕府が皇子を天皇として担ぎ、日本国が2つに割れることを危惧しました。
実際、後鳥羽院は平家が安徳天皇を同道して都落ちし、自分以外にもう一人天皇が存在することを体験した当事者です。
その結果、自分は三種の神器なしに即位することとなり、長くそのコンプレックスに苦しみました。
誰よりも「2人の天皇」の危険性に敏感な後鳥羽院。
それでも皇子下向を一度は納得したのは源実朝という存在がいたからです。

忠臣・源実朝不在の幕府、実朝を守れなかった幕府を後鳥羽院は最早信用していませんでした。

後鳥羽院と幕府首脳に生じる温度差

後鳥羽院の意向が鎌倉に伝えられたのは閏2月12日。
幕府にとって後鳥羽院の意向は予想外だったことでしょう。
親王下向は合意済みであり、要請はその念のための確認だったはずです。
閏2月14日、幕府は再度の使者を送り、京の二階堂行光に対し、「機会を見計らい、すぐに親王を下向させてほしいと再度、後鳥羽院に奏請するように」と指示しました。

将軍不在で焦る幕府の要請に対し、後鳥羽院が応えることはありませんでした。

次回予告

画像1

至高の権威で幕府を揺さぶる後鳥羽院。
鎌倉幕府はそれに武力で応え、北条時房率いる軍勢を上洛させる。
後鳥羽院によみがえる幼き頃の屈伏の過去。
協調から対立へ。
公武関係が転換するとき、次期将軍を巡る交渉は決着する。
次回「四人目の適格者と尼将軍」。

この記事が参加している募集

#とは

57,754件

#最近の学び

181,254件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?