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【いざ鎌倉(2)】1192年の後鳥羽天皇

第2回です。
今回は後鳥羽天皇を中心に、1192年までの皇室と朝廷について解説していきます。

激動の年に生まれる

後鳥羽天皇は治承4(1180)年7月、第80代高倉天皇の第四皇子として生まれます。名は尊成といいました。

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前回、源頼朝の解説で触れた以仁王による打倒平氏の挙兵がこの年の5月、頼朝の挙兵が8月ですから、後鳥羽天皇はこれからいよいよ源平の戦いが激化するまさにその時に生まれたことになります。

後に平家に擁立されて皇位を継ぐ安徳天皇は、高倉天皇と平清盛の娘・徳子の間に生まれた第一皇子で後鳥羽天皇の兄ですが、母親は異なります。
後鳥羽天皇の母は、後白河上皇の近臣で公卿・坊門信隆の娘・殖子でした。

後鳥羽天皇と平家

安徳天皇と母は異なりますが、後鳥羽天皇自身も平家と深い繋がりがありました
先に触れた母方の祖父・坊門信隆は、永暦2(1161)年、平教盛、平時忠らとともに二条天皇を廃して憲仁親王(高倉天皇)を擁立する陰謀に加わった嫌疑で、因幡守、右馬頭を解官されています。
つまりは親平家の公家だったわけですね。

そして、後鳥羽天皇の養育にあたった乳母の高倉範子の夫は、平清盛の正室・時子の異父弟の僧侶・能円であり、こちらも平家との繋がりが深い人物でした。
後鳥羽天皇も兄である安徳天皇と同じく、平家一門の人間関係の枠組みの中で養育されたといえます。

都落ちに伴われる可能性も

寿永2(1183)年7月、木曽義仲の軍勢が京に迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へ落ち延びます。いわゆる平家の都落ちです。
この時、安徳天皇だけでなく、後鳥羽天皇の同母兄である守貞親王(高倉天皇第二皇子)も、平家の西走に伴われています。
後鳥羽天皇の乳母夫・能円は、都落ちに同道しており、西国から妻範子と後鳥羽天皇を呼び寄せる手紙を送ったエピソードが『平家物語』に載せられています。
乳母・範子の実家である高倉家が引き留めたことで後鳥羽天皇は京に残ることになりますが、このエピソードが史実でなかったとしても、後鳥羽天皇が西国へと伴われる可能性は十分にあったのだろうと思います。

異例の即位

天皇不在となった京の朝廷には2つの選択肢がありました。
一つは平家と和睦して安徳天皇の帰還を待つこと、もう一つが武力で平家を討伐することでした。
平家による幽閉から院政を復活させた後白河法皇は、後者を選びますが、安徳天皇擁する平家と戦うには同等の正統な権威、つまりは新たな天皇が必要となります。

後白河院が考えた候補者は2人いました。
この時、既に崩御していた高倉天皇の皇子、つまりは自身の孫で平家の西走に伴われなかった第三皇子の惟明親王第四皇子の尊成親王でした。
しかし、ここで平家を追い落とした木曽義仲が第三の候補を擁立します。平家打倒の兵を挙げた以仁王の王子である北陸宮の践祚を後白河院に要求しました。
後白河院は皇位継承に口出しする義仲に激怒しますが、京を守護する軍事力を持つ義仲と正面から対立するわけにもいかず、種も仕掛けも政治工作もあったに違いない「公平な占い」により尊成親王が新天皇に決まります。
第82代後鳥羽天皇の誕生です。
このときわずか4歳でした。

ただし、この時、皇位とともに天皇に受け継がれてきた「三種の神器」は平家が持ち去っており、後鳥羽天皇は神器のないまま践祚、即位することとなりました。
そして、平家滅亡後、神鏡と神璽は無事に発見、回収されましたが、壇ノ浦に沈んだ宝剣はだけはついに見つかりませんでした。
皇位の正統性を保証する神器なしに天皇となったことは、後の後鳥羽天皇にとって大きなコンプレックスとなります。
後鳥羽天皇はその生涯で政治、武芸、芸術さまざなまことに挑戦し、その多くで才能を発揮しますが、それは全て「宝剣の欠落」を埋めるための一生をかけた挑戦だったのかもしれません。

なお、失われた宝剣は草薙剣の「形代」(分身)であり、本体は名古屋の熱田神宮にあります。
そして伊勢神宮より後白河院に献上された剣があらたな形代となり、この剣がいまも天皇陛下に皇位とともに伝えられています。

摂関政治を取り戻す!九条兼実の登場

後鳥羽天皇の即位により、京の朝廷は安徳天皇を擁する平家に劣らぬ正統性を確保します。この後、平家が滅亡するまで天皇が2人両立する状態となりました。
その安徳天皇は、寿永4(1185)年3月24日、壇ノ浦の戦いで清盛の未亡人・時子が抱きかかえたまま入水し、崩御します。
わずか8歳でした。

天皇は1人となりましたが、世の中は落ち着きません。
今度は、源頼朝と義経の兄弟が対立し、後白河院は義経に脅されて「頼朝追討の宣旨」を出します。
これに頼朝は激怒。頼朝にすれば「誰が平家を倒して政治を取り戻してやったと思ってるんだ(怒)」ということですね。
後に弁明に訪れた後白河院の近臣・高階泰経に対し、頼朝は後白河院について「日本第一の大天狗」と罵倒しています。

キレた頼朝は代官として舅の北条時政に軍勢を率いて上洛させ、朝廷の改革に乗り出します。
この時に頼朝が提携したのが右大臣・九条兼実でした。

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この人は、平安時代に摂関政治全盛を生んだ藤原北家の出身で、まさにかつての摂関政治全盛期こそ理想の政治だと考えているような人でした。
プライドも高く、平家の政治にも後白河院の院政にも不満で、右大臣の要職にありながら長年朝廷に出仕しないことが多く(サボリ)、超名門貴族でありながらこの時まで20年間出世していません。

ただ、「頼朝追討の宣旨」に反対していたことで頼朝には評価され、「後白河院の権力を抑制したい」という共通の目的もあり、頼朝・兼実の利害は一致します。

文治2(1186)年3月12日、九条兼実が後鳥羽天皇の摂政に就任。頼朝は、平清盛のように後白河院の院政を停止するような反乱を招きかねない強硬手段は取りませんでしたが、九条兼実を後白河院のお目付け役とすることでその力を抑えました。

文治6(1190)年1月3日、摂関家の伝統により九条兼実の娘・任子が後鳥羽天皇に入内し、4月には中宮となっています。

そして1192年の後鳥羽天皇

建久3(1192)年3月13日、激動の中、長年にわたって朝廷の政治を主導してきた後白河院が崩御し、後鳥羽天皇が皇室の家長である「治天の君」となります。
ただ、この時はまだ13歳。
天皇親政を行うには幼く、朝廷の政治は関白となった九条兼実を中心に進められます。

後鳥羽天皇が政治を主導するにはまだ少し時間が必要でした。

次回予告

朝廷・皇室にとっても1192年は後白河院の崩御という、大きな変化のある年でした。
次回は武家の話にもどります。
源頼朝の将軍就任についてです。

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