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【異国合戦(22)】蒙古、襲来

今回記事からいよいよ文永の役についてです。

前回記事は下記のとおり。

これまでの全記事は下記から読めます。


文永の役、開戦

 日本との通交交渉に失敗した大元帝国(モンゴル帝国)は文永11年(1274)10月、遂に日本侵攻を開始する。最初の蒙古襲来、文永の役の始まりである。
 なお、現代を生きる我々が歴史教科書で目にする「元寇」は江戸時代に水戸藩主・徳川光圀が編纂した『大日本史』を起源とする用語である。実は意外と新しい。大元帝国が侵攻してきた鎌倉時代当時は使われていなかった。
 
 元の属国である高麗は当然出兵を余儀なくされた。高麗の合浦(大韓民国馬山市)を10月3日に出発した元・高麗連合軍はまず対馬へと侵攻した。これまでの対日外交使節も最後の使者となった趙良弼を除けば、最初に対馬の地を踏んでいるし、対馬は朝鮮半島から目と鼻の先にある。大宰府より半島に近い対馬が最初の標的となるのは必然だった。
 
 皇帝フビライが日本侵攻の勅命を発したのが7月でありながら、侵攻が10月まで間が空いたことは直前の6月19日に高麗王元宗が薨去したことが原因と一般的には考えられてきた。ただ、気象統計の研究によりこの時期は北西からの追い風を得られる日が多いことがわかっており、元は自軍に有利な時期を狙って侵攻した可能性も十分にある。
 元軍の対馬上陸の日は議論が分かれるが、北西からの追い風が吹いていたと考えれば出発と同日と考えるのが妥当。10月3日中に先陣は上陸したと考えてよいのではないか。
 
 元軍の兵力についても様々な議論がある。古来より大陸の史書は数字を大袈裟に書く。中国四千年に白髪三千丈……数字を真面目に受け入れるのは危うい。『高麗史』によると元軍2万5000人、高麗軍8000人で合計3万3000人。これが想定されうる最大の兵数で、実際はもっと少ない可能性もある。
 ただ、どういう数字であれ対馬の武士がこれを撃退するのは不可能であっただろう。対馬守護代である宗助国が率いた武士団は一説に80余騎。上述のとおり北西からの風が吹いていたとするならば、日本側にとっては向かい風であり、九州から迅速に救援を送り込むのは不可能であった。

令和2年に完成した宗助国像

 元軍の総兵力が同時に対馬上陸を果たしたとは到底考えられないが、対馬勢が圧倒的に少数で迎え撃ったことは間違いない。
 宗助国率いる軍勢は、セオリー通りに上陸してくる元軍を狙って矢を射かけ、数十名を討ち取ったが、最後は衆寡敵せず玉砕した。元軍は島内の山間部に侵攻し、住民の住居を焼き払った。
 日蓮が伝聞として書き残した書状によれは、島民は殺害され、あるいは生け捕られ、捕虜となった女性は手のひらに穴を開けられ、ひもを通して数珠つなぎにして船にくくりつけられたという。
 
 元の残虐行為は強い衝撃を持って日本中に伝播した。聞き分けの無いワガママな子供に「ムクリコクリ(蒙古高句麗)が来るぞ」、「モッコ(蒙古)来るぞ」などと脅す風習が民間伝承として、実際に被害にあった対馬から北は青森県までいまも日本各地に残る。 

元はなぜ日本を攻めたのか

 元の侵攻は日本との通交が不可能であり、軍事力で屈服させ、占領する以外に元の勢力圏に日本を置く手段が他にはないと判断したためと考えられる。
 フビライがそれほどまでに日本に固執した理由は、不倶戴天の敵である南宋と日本の関係を重視したためだろう。丁度、現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』で宋人が越前にやってきて日本との国家間の正式な交易を求めるという話があったが、正式な外交関係こそなかったものの日本と宋の民間貿易は300年近く続いており、日宋両国に富をもたらしていた。特に火薬の原料となる硫黄を日本が輸出していたことを元が問題視したという見解もある。軍需品の輸出を見過ごすわけにはいかない。中華大陸の覇権を狙うフビライにとって日宋関係を断ち切り、日本を自陣営に取り込むのは重要な課題であった。
 それを外交によって解決できなくなった以上、軍事力による解決という選択肢が取られる。文永の役は元にとって対南宋戦争の一環であった。
 
 総司令官の東征都元帥を務めたのは忻都。音はヒンドゥが近いと言われ、モンゴル語で「インド」を意味するが、まさかインド人だったということはあるまい。モンゴル人と考えていいだろうが、その経歴の詳細は伝わっておらず、どういう人物であったか謎に包まれている。
 副司令官(東征右副都元帥)は高麗出身の洪茶丘。モンゴルの高麗侵攻後にいち早く寝返った軍人・洪福源の息子であり、自身も三別抄の鎮圧に功績があった。高麗、そして現代の韓国においても売国奴と忌み嫌われる軍人である。
 もう一人の副司令官(東征左副都元帥)は漢人の劉復亨。フビライが大ハーンに即位する以前からモンゴル帝国に仕え、対南宋戦争に従軍し、戦果を挙げていた。
 総司令官のヒンドゥの素性はよくわからず、大元帝国にとって一線級の軍であったとは言い難いが、両副司令官の顔ぶれからすると、相応に戦闘経験のある軍が日本に送り込まれたとは言えそうである。
 軍の構成はモンゴル人、漢人、高麗人を中心に、中央アジアや中東を出自とする兵もいたであろう。鎌倉幕府が相手にする軍勢は紛れもなく世界帝国のそれであった。

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