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【異国合戦(21)】襲来前夜

 今回は二月騒動後の日本国内の動きを見ていきます。
 蒙古襲来前夜。
 大元帝国の脅威は目前に迫っています。

前回記事は下記のとおり。

これまでの全記事は下記から読めます。


後嵯峨上皇の崩御

 二月騒動で北条時輔が討たれ、都が衝撃に見舞われてからわずか2日後の文永9年(1272)2月17日、後嵯峨上皇が崩御した。

第88代後嵯峨天皇(『天子摂関御影』)

 天皇として4年、院政が26年で朝廷に君臨すること通算30年。後鳥羽上皇による承久合戦と九条家による対北条政治闘争を経て、幕府との協調を重視する治世であった。象徴的なのが第一皇子である宗尊親王の征夷大将軍就任、鎌倉下向だろう。宗尊親王は結果的に幕府内の政争に巻き込まれる中で京へ送還されることになったが、朝廷と幕府は対モンゴル外交でも足並みを揃え、協調体制が崩れることはなかった。

 後嵯峨上皇は寛元4年(1246)に皇位を第二皇子の後深草天皇に譲った。しかし、上皇が愛したのは第三皇子の恒仁親王であり、後深草天皇は正元元年(1260)年に17歳にして弟の恒仁親王への譲位を余儀なくされる。第90代亀山天皇であり、この兄から弟への不自然な譲位が200年にわたって後深草系の持明院統(北朝)と亀山系の大覚寺統(南朝)で皇位を争う端緒となる。

第89代後深草天皇(『天子摂関御影』)

 文永5年(1268)、亀山天皇の皇子・世仁親王が立太子する。年長である後深草上皇の皇子・熈仁親王を差し置いての立太子であった。当然、亀山天皇だけでなく治天の君である後嵯峨上皇の意向が強く働いたはずで、後嵯峨上皇の正統な後継者は兄・後深草上皇ではなく、弟・亀山天皇に決まったと誰もが思ったに違いない。
 
 しかし、後嵯峨上皇は自身の後継者となる次の治天の君を明言せず、幕府に任せるとしてこの世を去った。明らかに意中の後継者は亀山天皇と思われたが、幕府に委任した理由はよくわからない。後嵯峨上皇自身、京・鎌倉の双方で権勢を誇った九条家の意向に反して即位できたのは幕府の強い後押しがあったからであり、幕府の意向を無視して安定した皇位継承は無いという思いがあったのかもしれない。
 幕府も突然のことに困惑したが、後深草院と亀山天皇2人の母である大宮院にも意見を求め、結局、明らかに後嵯峨上皇の意中の後継者と思われた亀山天皇が親政を行うことになった。文永11年(1274)1月26日、亀山天皇は皇太子の世仁親王(後宇多天皇)に譲位し、院政を開始する。

第90代亀山天皇(『天子摂関御影』)

 後深草上皇は何の失政もなく皇位を弟に奪われ、治天の座も逃した。自らの子孫を皇位につけて院政を行う望みは絶たれたかに思われたが、天は後深草院を見放さなかった。

新体制の時宗政権

 朝廷だけでなく、幕府も生まれ変わる。幕府を揺るがした二月騒動と執権・北条時宗を支えてきた連署・北条政村の他界を経て、時宗政権も新体制となった。

 新しく連署に抜擢されたのが時宗の母方の祖父である北条重時の五男・塩田義政であった。時宗にとっては叔父ということになる。これまでも三番引付頭人の地位にあり、政権の中にあって時宗を支えてきた。
 幕府の序列としては三番頭人の義政の上には当然、一番頭人と二番頭人がいる。一番頭人は二月騒動で自害した名越時章であるから、二番頭人の金沢実時も連署の有力候補者であったはずである。
 それでも義政が抜擢されたというのは時宗との血縁の近さが要因としてやはり大きいのだろう。塩田義政が新連署に昇格したことで引付頭人は一番が金沢実時、二番が北条時村(前・連署政村の子)、三番が北条宗政(時宗の弟)、四番が北条時広(初代連署・北条時房の孫)、五番が安達泰盛となった。一番から四番まで北条一門、五番安達泰盛も時宗の義兄であるから縁戚である。
 
 なお、北条時輔の後任の六波羅南方探題は定められず空席で、六波羅は北方探題の赤橋義宗のみとなった。
 二月騒動を経て幕府首脳は完全に時宗支持者で固められた。

日蓮の帰還

 文永11年(1274)2月14日、鎌倉での過激な言動により佐渡へ流罪となっていた日蓮が罪を赦された。日蓮は3月13日に佐渡を発ち、同26日に鎌倉に戻る。
 佐渡での流人生活は約2年半に及んだ。その間、日蓮は弟子の協力を得ながら典籍の収集を行い、多数の著作を執筆して自身の思想を深めた。
 
 日蓮は遠い佐渡の地でも世の中の動きに強い関心を持ち続け、モンゴル外交や二月騒動について弟子や信徒に情報提供を求めている。
 日蓮はかつて著した『立正安国論』で「法華経を信仰せず、念仏などの邪宗を信じていては内乱が起き(自界叛逆難)、外国から侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)」と予言していた。二月騒動によってその内乱が現実のものとなったのだから、その情勢には並々ならぬ関心があったに違いない。
 
 鎌倉に戻って2週間が経った4月8日、日蓮は幕府の侍所所司の平頼綱との会談に臨んだ。頼綱は得宗被官(北条家嫡流の直臣)のトップであり、執権・北条時宗の側近中の側近である。日蓮にとっては2年半前、自身を捕らえ取り調べを行った因縁の相手でもある。
 互いに過去の経緯を水に流しての会見であったろう。いまも日本政府が民間の有識者を招聘して、助言や協力を求めることがあるように、モンゴルからの侵攻の危機が高まる中、幕府は日蓮の助力を欲した。幕府は、日蓮を流罪としつつも、『立正安国論』に代表されるその思想と言動には一目置いていたと言えよう。
 
 ただ、「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」の考えを曲げず、法華経に帰依する以外に救国の道はないと信じる日蓮と、あらゆる神仏・宗派の力を総動員することで蒙古の危機に対処したい幕府の溝が埋まることはなかった。幕府は日蓮の力を認めていたが、あくまでも有力な宗教者の「one of them」であり、日蓮と法華経のみに頼るという考えは無かった。当然、他宗を排除しない幕府に日蓮が協力することはない。会談は物別れに終わる。

 会談の中で平頼綱は日蓮に「蒙古襲来はいつになるか?」と問うた。日蓮の答えは「今年中に必ず」であったという。
 この日蓮の“予言”は的中することになる。

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