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【異国合戦(19)】偽りの使者

 今回は蒙古襲来前の最後の使者となる趙良弼の来日を中心に、日本・モンゴルの外交と鎌倉幕府の防衛体制構築について解説します。

前回記事は下記のとおりです。

 これまでの全記事は下記から読めます。


趙良弼の来日

 文永8年(1271)9月19日、モンゴル帝国からの第5次使節団が博多湾の今津に上陸した。正使を務めたのは女真人の趙良弼。フビライが皇帝に即位する以前から側に仕えた忠臣であり、南宋との戦争や占領地支配に功績があった。これまでフビライの命を受けた高麗人が大宰府に至ったことはあったが、モンゴルの直臣が九州の地を踏むのは趙良弼が初めてのことであった。そして、結果的にモンゴルの対日外交において最も有能で、日本にとっては厄介な使者であった。
 
 日本では、この少し前に高麗に反乱を起こした三別抄が救援を求める使者を送ってきたばかりであり、モンゴルの軍事的脅威が現実的な危機と受け止められつつあった頃である。
 これまでモンゴル・高麗の使者は一度、対馬に立ち寄るのが通例であったから、博多湾にダイレクトに表れた使節団に日本側は慌てたことだろう。
 大宰府の少弐資能は趙良弼に対し、持参した国書を渡すよう求めたが、趙良弼はこれを断固拒否した。国書は京都で天皇に面会して直接渡す、それが難しければ鎌倉の将軍経由で渡すものであり、大宰府で手渡すことは皇帝によって固く禁じられていると趙良弼は主張した。
 趙良弼は、日本がこれまで返書を送ってこないのは国書が大宰府で握りつぶされ、天皇に見せられていないからだと疑っていた(もちろんそんな事実はなかったのだが)。

 さすが趙良弼は皇帝直属の臣下であり、モンゴルの命令で仕方なく日本にやってきた高麗人とは違った。務めを果たさんとする強い意志と能力を持った有能な官僚、外交官であったと評価して良いだろう。
 来日直前にはどのような儀礼で天皇と会えばよいかモンゴル宮廷に問い合わせてもいた。「日本とは上下関係が未確定で儀礼を定めようがない」というのが結論であったが、趙良弼が天皇と会う意志を持って準備を進めていたことは間違いない。
 趙良弼のタフネゴシエーターぶりはこの後も発揮されることになる。

朝廷と幕府の決断

 趙良弼は天皇、将軍との面会を望んだが、少弐資能は従来通り外国の使者が大宰府より東に進むことを認めなかった。結局、両者の交渉の末、趙良弼が国書と同内容の写しを作成し手渡すことになった。
 その内容は、同年11月を期限とし、日本から使者をモンゴルに送ることを求めており、それに応じない場合は戦争も辞さないと解釈できるものであった。

 朝廷の貴族たちはこれを最後通牒と見なし、戦慄した。事実、皇帝フビライは渡海する趙良弼を軍勢に護衛させ、帰国するまで高麗の金州に待機させている。今回は軍事行動の伴う使節派遣であり、フビライの対日侵攻の意欲は高まりつつあった。
 朝廷は、院評定により第4回使節来日時に菅原長成が起草した返書案を修正して返書を渡すことに決めた。しかし、結局鎌倉幕府側の無視を続けるという姿勢は変わらず、朝廷も足並みを合わせる。返書が送られることはまたしてもなかった。
 しかし、同時期に送られてきた三別抄からの救援要請とは異なり、趙良弼の持参したモンゴル国書については朝廷に返書の意思があったことは注目に値する。たしかに国際情勢に疎い当時の朝廷にとって、反乱軍としての三別抄の立場をよく理解できていなかった可能性が高いという事情はあるものの、そちらは急ぎ返事をしなければならないものという認識はなかった一方で、趙良弼の国書については「最後通牒」であり、急ぎ返事をしなければならないという認識があった。
 ただ、鎌倉幕府には朝廷と異なる事情がある。軍事組織であり、数々の戦争に勝利して立場を築いた幕府が、軍事的圧力に屈して返書を送るという決断を下すことは認められなかったのである。

偽りの使者

 趙良弼は自身の職務遂行に強い意志を持っていたが、単なる強硬派ではなく、戦争は回避すべきという意志は持っていたようにも思われる。回答期限の11月が迫るが、天皇との面会は実現せず、日本側からの返事も引き出せない。趙良弼は焦りつつも大宰府と粘り強く交渉した。
 そして、大宰府の少弐資能も最前線で交渉を務める中で焦りがあっただろう。朝廷と幕府が今回も無視をすれば戦争になりかねない。そうなれば先陣を切るのは九州に所領を持つ自分たちである。

 焦る両者の交渉から妥協の産物として生み出されたのが、趙良弼が連れてきた弥四郎という日本人と大宰府関係者の12人を使節団としてモンゴルに送るというものであった。
 もちろんこれは朝廷・幕府が認めた公式の使節団ではない。趙良弼と少弐資能が戦争回避のために用意した「偽りの使者」であった。なお、弥四郎の素性は明らかではない。趙良弼が連れてきたのだから、日本在住ではなく、高麗、あるいは対馬に住んで日本・高麗間の交易に携わっていたりしたのかもしれない。
 趙良弼は高麗に根回しをして、この使節をフビライの下へ送り届けさせる手配をし、自身も高麗の開京まで付き添った。
 
 文永9年(1272)2月1日、日本人使者12人は大元の首都・燕京に入った。
かつてフビライは塔二郎と弥二郎という拉致した2人の日本人を接見し、歓待している。この事実を趙良弼と少弐資能は知っていたはずで、日本人を送りさえすればフビライは機嫌よく謁見すると両者が考えていたとするならば、その希望は見事に打ち砕かれた。
 使節団は当然天皇の国書を持たない。フビライは天皇からの使者ではなく、大宰府からの使者がやってきたことを訝った。
 趙良弼がいつまでも天皇と面会できない中、日本側が送ってきた非公式な使節団に謁見を許してはフビライとしては面子が立たない。使節団は約1か月滞在したが、皇帝フビライは使節団の目的を来たる戦争に備えた偵察だと判断し、謁見を許さなかった。

 結局、大宰府使節団は何の成果もなく帰国せざるを得なかった。趙良弼も再び来日したが、日本側が天皇・将軍との面会を認めることは無く、大宰府より東に進むことは無かった。
 帰国した趙良弼はフビライから「汝は君命を辱しめなかった」との言葉を賜った。国書を大宰府に渡すことなく、粘り強く交渉を続けたことをフビライは評価したのだろう。1年近く大宰府に滞在した趙良弼にフビライは日本侵攻について諮問したが、趙良弼は「日本は川と山が多く、農業生産に適さないため利が少ない。海を越えるリスクを冒してまで戦争をするメリットはない」と否定的な見解を述べたという。

異国警固番役

 三別抄の使者と趙良弼の来日に合わせるかのように、幕府はモンゴルの侵攻に備えて九州の防備を進めた。
 鎌倉幕府は当初、関東に生まれた地方軍事政権に過ぎなかったが、平家政権を打倒し、後鳥羽上皇の官軍に承久合戦で勝利することで所領を西国に広げた。いわゆる「御恩と奉公」の「御恩」として西国の所領は手柄を立てた御家人たちに与えられたが、東国出身の御家人の多くは与えられた西国に赴くことはなく、本領の東国を拠点としつつ代官を派遣して西国所領を統治した。
 モンゴルが侵攻してくるならば戦場は当然、西国となる。それなのに御家人が九州に不在では防衛は十分に機能しない。そこで、幕府は九州に所領を持つ御家人に対し、現地に下向することを命じた。豊後の守護である大友頼泰はこの時期に相模から豊後へと下向し、モンゴル侵攻に備えた。
 大友氏は頼泰の代に本拠を豊後へと移し、後に戦国大名となって北九州に勢力圏を広げることになる。薩摩の島津氏もこれより3年後の建治元年(1275)に下向し、そのまま土着した。

 こうして幕府がモンゴルの侵攻に備えて御家人に課した北九州防衛のための軍役を異国警固番役という。後に国ごとに担当個所が割り振られ、期間を決めて交代制とする形式に制度が整えられた。
 異国警固番役は、文永と弘安の2度の合戦の後も鎌倉幕府が滅亡するまで続けられ、室町幕府にも引き継がれた。

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