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腹は立つけど嫌いじゃない#22

半ドン技師です。

私の実家は、西陣織関係の仕事をしていました。
幼少期、西陣という地域は活気があり、自営業の父は、働けば働くだけ儲かる環境。
なのにいつも貧しい我が家。その理由は単純。父は「労働」が苦手だから。

でも、仕事をサボる口実なのか、よく遊んでくれました。
いや、遊んでくれると言うより、父が率先して遊んでいました。
晩年、取り逃がした、人の手ほどのハサミを持った真っ赤なザリガニの夢を今でも見ると言っていました。あのザリガニを私に見せてやれなかったのが心残りだと。
70年以上生きてきて心残りがそれかぁ・・・
だけど、ザリガニを取りに行ったとき、田んぼで父と一緒に食べたシャケ弁、美味しかったなぁ。幼少時代、私が幸せな時間を過ごしていた事は間違いないです。


のんびり自営業の父も、西陣織のコンピュータ化の流れには抗えず、警備業に転身。
職が変わったところで人はそうそう簡単には変わりません。
交通警備をさせれば、旗をそこらに引っかけて、勝手にトイレに行って持ち場を離れる。
施設警備をさせれば、始業と共に、終業までの警備日誌を仕上げる。仕事が早い・・・

そして口癖は、
「どうもない、どうもない」
父がどうもなかったのは回りの人たちがフォローしてくれていたから。
こんないい加減な父なのに、なぜか慕われ、いつも助けてもらえるんですよね。
その中でも最も助けてくれたのは言うまでもなく母です。
完璧だった母の唯一のミスは、父より早く亡くなってしまったことでしょう。
母がいないと何も出来ない父、いや何もしようとしない父。

母が亡くなったあと、姉と私の戦いが始まります。
脳梗塞の既往もあり3階建ての実家での独居は心配なので、老人用マンションに引っ越してもらいました。元々邪魔くさがりで天然な父。わかり辛かったのですが、認知症が始まっていたのでしょうか。
おむつをトイレに流そうとしていたり、その汚れた手で壁を触っていたり、宅配弁当は床に散らばっていて、医者に止められているビール缶も転がり(どうやって購入した?)。

仕事上がりに父のマンションの掃除に向かうのですが、もうエレベーターホールまで悪臭が漂っている気がしていました。掃除が終わっても、自分の体臭が気になって・・・
あの頃の私と姉は、自分の親なのだから自分たちだけで、何とかしなければと思い込んでいました。追い込まれていた二人は、父への当たりもきつくなっていました。

限界を感じた姉が、いろいろと調べてくれ、サービス付高齢者向け住宅に行くことに。
それを機にケアマネさんのアドバイスもあり、人やサービスに頼っていいのだと思えるようになりました。そして憑き物が落ちたように父に優しく出来るようにもなりました。

集団で生活するようになり父も本領発揮。たくさんの友だちも出来、皆さんにやはり慕われている様子。けっこうな量のお菓子を差し入れてもすぐになくなるんです。どうやら皆さんに振舞っていたようです。コミュ力が高い。
脳梗塞が再発し長期入院になったため、荷物を引き取りに行ったときも、隣のおばあさんが、「もう帰って来られないのですかと。」と涙を流してくださいました。
もしかしたら偉大な父なのかも・・・いや、それはないかぁ笑

入院中、父の食欲が無くなっていたので、コロッケを買って届けました。
そして、明日から家族旅行だから、数日、顔を出せないと父に伝え帰ろうとしたら、
「ありがとうな」と珍しく父がお礼を。
「コロッケくらいでたいそうな。旅行から帰ったらすぐにまた来るから」
と答えると、
「あぁ。色々な。ありがとう」
ともう一度。

あれだけ明日から家族旅行だと言ったのに、その夜、急変し帰らぬ人に。
家族に迷惑かけまくってきたのに、最期の言葉が「ありがとう」だなんて。
ずるいなぁ。

こうして父のことを書いていても、エピソードがどんどん浮かびますが、これは世に公開したらダメだろうという内容が多すぎて、削除しまくりです。
そして、亡くなった今でも、思い出しては腹が立つ笑
腹は立つけど嫌いじゃない。
それが46年間親子をしてきた答えなのでしょう。


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