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Quarter Life Crisis|短編小説


 孤独が優しく滲んだ。

あゝ、今日からひとりなんだ。

そう思うと、孤独を不幸にしてはいけない気がして、それを正すように背筋をスッと伸ばした。

「じゃあ、元気で。」

「ユウジも、元気で。」

ユウジは、狭窄した場所からスルンと抜け出したときのような開放的な声音と表情で挨拶をした。それは、いつもの「行ってきます。」の挨拶のような気軽な心地がして、これで会うのは最後なのになんだか呆気ない、と心の隅で思ったけれど、それ以上の言葉が見つからなかった。いまの私たちに残っているものは窮屈さと薄恥を足して2で割り切れないような微妙な素振りだけだ。別れの挨拶は簡潔に済んだのに、ユウジも私もその場から動こうとはしなかった。

 「あのさ、このあと予定ある?なければさ、より道へ珈琲飲みに行かない?」

ユウジは、上着のポケットへ手を突っ込んで鳥が羽ばたくようにゆっくりパタパタしながら私に提案した。ユウジの言う『より道』とは、この街に古くからある純喫茶『より道』で、そこの珈琲がとても芳醇な深みがあり、アップルパイは濃厚なりんごとシナモンの風味が絶妙に美味しいのだ。私たちがこの街で同棲をはじめた頃から、よくふたりで通った。

「うん、行こう。」

私は、前髪を直しながらつぶやくと、ユウジは「じゃあ、出発。」とつぶやいて、ポケットへ手を入れたままクルッと向きを反転して歩きはじめて、私はその後ろをついて行く。

 大通りに出ると月曜日の昼過ぎということもあり、行く人もすれ違う人も、スーツを着ているサラリーマンが多くて、それはまるで、ヌーの群れの中へ放り出されたような気がした。規則正しい群れをすこし歩いて、ユウジはそこから抜け出すように角を曲がると、細い路地へ入った。そして、その先にある蔦が壁を這う店のドアを開けると、鐘がカランコロンと鳴った。すると、マスターと奥さんが

「いらっしゃいませ。」

と、私たちを迎えてくれた。私たちは会釈をしながら窓際の席へ腰掛けると、奥さんがお冷とおしぼりを出してくれた。ユウジは、私に「いつもので良い?」と、訊ねてくれたので私も「うん。」と小さく返事をした。

「ブレンド珈琲ふたつと、アップルパイふたつ。」

ユウジは、奥さんへ伝えると、奥さんは笑顔でオーダーを取り、カウンターへ移動した。

「なんか、ここへ来るの久しぶりだね。」

ユウジは、おしぼりで手を拭きながらつぶやいた。黒縁メガネから覗く眼はいつものように穏やかだった。私はそっと視線を外してから

「そうだね。最後に来たのは半年前だったと思う。なんか懐かしい気がする。」

と、つぶやきながら優しい珈琲の香りが漂う店内を見回した。その空間は、とてもシックでありながら、どれもが土に根を張るような古さを感じた。人や物や時間は残酷に流れて行くけれど、この空間だけは普遍が存在しているかのような気がした。すると、ユウジは

「住むところどこにした?」

と、何気なく訊ねるけど、私は

「それは──うーん、ひみつにしとく。なんか言っちゃうと、別れた意味がないような気がするし、決心が鈍りそうだから。ごめんね。」

と、伝えると、ユウジは

「そうか、そうだね。なんか、ごめん。」

と、つぶやいた。気まずさで窒息しそうなふたりの間に温かい珈琲とアップルパイが運ばれてきた。それは、いまのふたりには助け舟のような役割を果たした。テーブルにそれらを配膳した奥さんは、「ごゆっくり。」とつぶやいてカウンターの奥へ消えた。私たちは、小さく、いただきます、をしてから珈琲を飲んだ。口腔内に淡く広がる珈琲の深みに「はあ。」と、温かいため息が漏れる。そして、サクサクのパイにフォークで切れ目を入れて一欠片を口へ運ぶと、りんごとシナモンの風味が舌の上で解けた。

「美味しいね。やっぱりここの珈琲とアップルパイは、サイコーだよ。」

ユウジは、メガネを直しながらそうつぶやいた。すると、ふと、記憶の結び目がゆるりと解けた。はじめてここへ来たときのこと。ユウジは私に、アダムとイヴの話をした。食べてはならない禁断の果実であるりんごを食べて楽園を追放された彼らは、死の定めを背負い、厳しすぎる環境の中で生きなければならなくなったことをユウジは淡々と話した。そして

「でもさ、僕は、アダムとイヴは、りんごを食べて良かったと思うよ。物事に終焉がないなんて、これほど辛いものはないよ。」

と、言いながら美味しそうにアップルパイを食べたことを思い出して、同棲をはじめた当初の気持ちに火が灯った。

揃いの食器。
並ぶ歯ブラシ。
ふたり分の食事。
すこし右に傾いたソファーと椅子。
ブーンと鳴る冷蔵庫。
ベランダの色褪せたサンダル。
ひとつのベッド。

四角い箱のような部屋にある何もかもが新鮮で、愛おしくて堪らなかったのに、いつしか生活を重ねるうちに結婚を急ぐ私と結婚を急ぎたくないユウジとの間に溝ができ、最終的には互いを想いやる気持ちはなくなり、諍いが絶えなくなった。そして、いちばん近くにいるのにいちばん遠い存在になってしまい、離れた心は最後まで戻らなかった。

終焉

ぽつりと頭に浮かぶ言葉は、もし、アダムとイヴが禁断の果実を食べなければ、楽園でしあわせに過ごしていただろうか。そんなことが胸を突くと、自然と言葉が溢れた。

「あのさ、私たち、出会ってよかったよね?」

すると、ユウジは優しく微笑みながら

「もちろん、出会ってよかったよ。出会えたから、いっぱい楽しいことがあったじゃん。僕は、しあわせだったよ。それと──サトミ、お誕生日おめでとう。」

と、言ってから珈琲を飲んだ。私はその言葉に

「ありがとう。」

と、つぶやいたら泣きそうになり、窓の外へ視線を移して息を詰めた。泣くな、と自分に喝を入れて、熱い塊をグッと堪えた代わりに優しく微笑んだ。

「覚えててくれたんだ。」

ぽつりとつぶやくとユウジは笑いながら

「当たり前じゃん。この日はこれから先も忘れないよ。」

と、軽快につぶやいた。こんなに優しい人を私は失うんだ、とぽつりと思い、それと同時に、ユウジの中で私が生きている、と感じた。ふたりの関係は、うまくはいかなかったけど、共に過ごした時間はこれからの私を支えてくれるような気がした。

 それから、珈琲とアップルパイを食べたあとは、どちらからともなく「行こうか。」と、声をかけて『より道』を後にした。もしかしたら、もうここには来ないかもしれない、そんなことを思いながら店を出ると、斜陽が私たちの影を伸ばした。大通りに出るとユウジは

「じゃあ、元気で。」

と、笑顔だったから、私も笑顔で

「じゃあ、元気で。」

と、返事をしてそこで別れた。私は後ろを振り向かずに前へ進む。

今日からひとりなんだ。

そう思うと、孤独を不幸にしてはいけない気がして、それを正すように背筋をスッと伸ばし、前だけを見て、夕映えが滲む道を歩いた。









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