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恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻す?

「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻す」
Love is blind, but marriage restores its sight.

これはドイツの科学者リヒテンベルク(Georg Christoph Lichtenberg)の格言だ。

直感的には、言い得て妙、と思えなくもない。

だが、これを単なる皮肉として片付けるのはもったいない。

そもそもこれは真実なのか。
真実だとして、この既視感満載のフレーズを、もう一歩踏み込んで捉え直すことはできないだろうか。

今回はこの格言について、人の認知に関する研究も引用しつつ、掘り下げてみたい。


恋愛中のカップルの認知傾向

興味深い研究報告がある。

少なくともカップルの一方である大学生の男女130組を対象に、相手や自己のパーソナリティに対する認知を調査したものだ。(注)

それによると、恋愛状況下のカップルにおいては、互いに対するイメージを狂わせる2つの傾向があることが示唆されている。

その2つとは、

1. 相手を自己像に類似させて認知する傾向
2. 自己像についても、理想化されて認知する傾向

分かりやすく言えば、

恋愛中は、「もし自分が異性だったとしら、こんな人が理想だろう」という見方で相手を見ている、ということだ。

こうしたバイアスを生じさせる交際中の期間が過ぎると、「理想化されたパートナー像」も等身大に近づく。

「あばたもえくぼ」時代の終焉とともに、「あばたはやはりあばただった」という気づきに到達するわけだ。

これが、「結婚は視力を戻す」たるゆえんだろう。


対話の重要性

前述のとおり、どうやらこの格言は、あながち出鱈目ではなさそうだ。

では、その意味合いをどう捉えるか。

相手に対する認知のバイアスが元に戻ること自体は、悪いことではない。

むしろ、現実とかけ離れたイメージが正しく是正された時に初めて、本当の意味での地に足のついた関係構築が可能になるようにも思う。

では、互いに相手を等身大に見ることが出来るようになった時、それをどう二人の関係に良い方向へ生かしていくか。

「視力の回復」がポジティブに作用するために、どういう姿勢で相手と向き合えば良いのか。


やはり私は、対話が何より大事ではないかと思う。

言語によるコミュニケーションに勝る相互理解への道はないように思うのだ。


傾聴と自己開示による相互理解


私の考える対話とは、「傾聴と自己開示」である。


傾聴とは、相手を主人公にして聴くことだ。

この言葉は、辰由加さんの自伝的著書「子ども・パートナーの心をひらく『聴く力』」からの引用である。

自分の思いが先にあると、それ以外の状況が入ってこなくなることがある。私自身、気をつけていても、そうなってしまい反省することがある。

自分に余裕がないときほど、自分が見たいものしか見えていない。

パートナーが大事なサインや手がかりを出していても、自分の期待や視点と違っていると、そのことに気づかないことさえ珍しくない。

大切なのは、“相手が”何を見ているか、“相手が”何を感じているかという目線だ。

自分の頭の中の願望や期待や筋書きで見るのではなく、パートナー自身の言葉や表情や反応に注意深く目を向け、相手の気持ちを基準にして考えていくこと。

これを私は、「相手を主人公にして聴くこと」だと捉えている。


一方、自己開示において重要なのは、自分を主人公にして語ることだ。

このニュアンスを伝えるために、村上春樹さんの小説から引用してみたい。

「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」(羊をめぐる冒険)


「普通はこうだ」という議論に持ち込むと対話は膠着してしまう。

価値観も生育環境も異なる他人同士なのだから、「普通」が異なって当然である。

”自分は"どう思うのか、”自分は”何を望み、望まないのか。

その時生じた違和感や疑問を、押し殺さずに、あくまで主観的な、あるいは二人の間の問題として、言葉を尽くして出来るだけ素直に相手に伝えること。

これが私の考える、「自分を主人公にして語ること」である。


相手の言葉に耳を傾けること、自分の言葉によって表現すること。

そうした言葉によるコミュニケーションが、パートナーとの関係をより深く、親密なものにすると信じている。


「盲目」的な恋愛期間の後に訪れる、「視力の回復」。

さらにその先には、互いに相手のことが本人以上によく視える、かけがえのないパートナー同士の関係が待っているのではないだろうか。


mie


注:(出典)恋愛状況下におけるパーソナリティ認知/1994/潮村・佐藤