優しくあろうとしてるだけの修二(仮)の自己紹介
自分がいったい何に思い悩んでいるのかって割と前回の記事で発露してるような気がしました。どうせならこれまでの「優しさ」について自分が書いた源泉として、せっかくですので前回の補足として自己紹介回ちょっとやります。
優しくあろうとしてる人間は「経験」に基づく
まず、僕は幼い頃から新しい環境に馴染むことを身に叩きつけられたので、自分が「どんな人間」なのか正直に話する経験は希薄でした。
こういう経験に基づいた人間の心にあるのは、子供時代なのに、ありのままの本来の自分が受け容れられるという光景が思い浮かばない。
ただ、人は「話を聞く」よりも「話をする」ことが好き。
クラスの中心に近づくにつれて、存在が認められること。
その上で「わかりやすいキャラ」を掲げたら認められやすいということ。
人間の反応を見て、それを学習しながら実践することだけは身に付けてました。
そうして何より、自分の心に嘘をつくということが、外で生きるために一番効率が良いということを学んでしまう時期になってしまったわけですね。
親しい人間からは「優しい」という声を頂いても、優しさとは何かを掘り下げてしまったら、「優しさ」において自分のエゴを優先していないか。
あるいは「優しくあろうとしてる人間」でしかないという克己心がついて回って離れません。
楽をしている自分が誰かに受け容れられるという光景が思い浮かばないという、社会に対して己の存在価値を示すための強迫観念に繋がったと今は認められます。
なぜ他人を尊重する必要があるのか
自分が優しくない偽善者を主張してるわけではない。
ただ、人間関係の失敗など様々なことを糧にしようとすれば、それだけ考えるべきことが多くなってしまい、それを真面目に向き合おうとすると何が起こるのか。
例えば、感謝や共感、労いというポジティブな言葉が、それを受け取った人の周囲にも影響、そういうものが他の誰かに伝播されて行って「恩返し」という形として、周囲や全体を前向きにさせることを知っています。
だからこそ優しさを遍在させずに。分け隔てなく他人を尊重する事は大切です。
仕事や勉強において、よく指摘や指導、ダメ出しという慣習が挙がりますが、はっきり言って人間は、それを全部吸収して平常心のまま素直に受け止められるようには出来ていませんし、それを行う側もまた然り。
何かしらネガティブな感情を抱けば、その吐き出せる先を見つけようとしますし、悪態や愚痴といった他者への伝播に近い正反対の行動を取ってしまいます。
それを自分で律する生き方を選んでたわけですね。
だからこそ、自分のためだけに他人に何かを求めること、迷惑や傷つけないように配慮し過ぎて、言葉の切っ先が誰かに向かないことを第一にした結果、本心を明かせない人間になります。
ここまできたら、ただ背伸びして認められるための強迫観念と、それに摩耗する日々が出来上がっていました。
人としてのエゴや欲を自制し過ぎても苦しいだけの現実
心の居場所を実感できない中、その反動として家族であれ友人であれ恋人であれ、自分がその人たちにとって特別であるかどうかに期待して、結果「自分が優先されない」というのが、どうしようもなく苦しくなる。
そうして自分が「取り換えの効く関係性」に位置している疑問や苦痛を抱えたまま去るというのを繰り返してました。
『野ブタ』の桐谷修二が似た感性過ぎて、原作小説読んだらラストがマジでキツかったです。
誰もが自分の思惑や理解の範疇を越えていることには目や耳を塞いで、見たいものを見て、聞きたいことを聞く。
そして、自分とは異なる他人の存在を必要としていない。
自制心を持たないまま優しさをエサにして、無自覚なエゴや欲によって他人を利用して振り回すことが許される世界。
そうした人間社会への失望とやるせなさ。そんな中での著名人の自殺報道も重なったので、落ち着きを取り戻した分やりきれない気持ちは、前回の記事の通りです。
自分らしく生きる未来は模索中
今は次のステップに踏み出せそうということで、顔も知らない誰でもない人間の言葉や文章として、ここでも発信しています。
こうした活動から楽しみや学びを分けられることで、誰かを支えられた時間があるならと、ネットという力の働きとして素敵なことに生かせればと思って、こうして記事や作品を書き記すことを一人進めています。
まあ、なんとか生きていこうってことで生きてます。
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