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お土産と文化

12月28日昼

もう一館、図書館を見たくて公共図書館へ。

去年『12ヵ月の未来図』という映画を、青森のミニシアターで見た。フランスの地方の中学を舞台に、パリの名門校から赴任してきた国語教師が、大半がフランス以外の国にルーツがある生徒で構成されているクラスの担任となり、一年間で学習意欲を向上させる話だ。

フランスでは、地方都市の文化政策において舞台芸術や美術館にくらべ、公共の読書、つまり図書館があまり充実していなかったらしい。その上、フランスは階級社会の名残が強く、その階級を正当化すべく、高価な美術品の占有と高い文化的知識及び素養の継承を行った。よって、文化度の高さが学歴や就労に相関関係を持っていて、それにより社会環境などの重要な決定権を持つ人が変わらず、格差が固定されるようになった。

映画の中で国語教師が生粋のフランス人で父親が人気作家である文化人の家系であること、彼が生徒たちにビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を与える筋書きは自己批評的だ。

フランスでは70年代まで、フランスで作られた、あるいはフランス人が作った名作をフランス国民に等しく浸透させることを目標にしていた。

『レ・ミゼラブル』はフランス語の原題のまま世界的名作になった。『ザ・グレート・ギャッツビー』は日本語で『華麗なるギャッツビー』になり、『ボンジュール・トリステル』は『悲しみよ こんにちは』になるのに。

ただ、フランスでは80年代ごろから、移民の増加や文化に全く繋がることができない非観客の認識により、社会的少数者への働きかけ、少数者文化へ関心を持つこと、尊厳を保障することの理論を作った。

映画の中で国語教師がやった、中東やアフリカルーツの名前をキリキリしながら覚えるということは、どれだけ、その理論を体現しているのだろうか?

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空いていなかったので買い物へ。路地に入ってパッサージュポムレーに向かう。途中、昨日見つけられなかったスーパーを見つけたので、お土産を買うことにする。明日は日曜日で年末だし、スーパーが休みかもしれない(このような直感は後に当たる)。

事前に誰に何を買うのかは薄ぼんやりと決めていたが、いざ買うとなると途端に「これじゃないかも」と、もやもやしてくる。数が足りないかもしれない、小分け出来るかどうか、分けるシチュエーションも考慮する必要がある。バイト先は仕事中につまむから、小分けは必須で、口が乾かないもの、こぼさないもの、また味の好みが分かれるものだったり、味や形、大きさが違い過ぎるものも選ぶとき面倒くさい…………。

気分転換で自分で食べるものを見る。

果物。日本では時期が終わっている洋梨やオレンジ、ライチ、柘榴、キウイが安く食べられる。

チョコレートや冷凍食品、チーズは種類が多い。

飲み物は種類が少ない。一人で飲み切れる500ミリはオレンジジュースしかない。他は1リットルの紙パックだ。お茶も、甘い緑茶と桃の味がついた紅茶しかない(ただ、ティーパックは種類が多い)。こういう時、よく「日本の豊かさを痛感しました」とか「日本のコンビニやスーパーのありがたみがわかりました」と結論付けることがあるけど、それは単に自分がどれだけコンビニを当てにしていたかが分かるだけであって、豊かか乏しいかではなく、自分がどれだけその違いに対処するのが不慣れかが浮き彫りになることである。

などと考えながら一回りして、またお土産選びにお菓子売り場へ。この際、ひたすら数が多いやつを配る場所分ひっつかんで帰ろうと、じゃあこのマドレーヌの袋にしようと確認したら、このスーパーのプライベートブランドで、さすがにそれはないな、とか、この街はビスケットメーカーの本社があるので有名で、バターと小麦粉が名産だからやっぱりビスケットがいいかな話の種にもなるしでもビスケットの箱はかさばるし小分けじゃないし、買い物籠を見たらすでに山のようになってるし、エコバッグも急だったから小さいやつしか持ってないし、早く決めないと行きたかったレストランのランチタイムが終わってしまうし、そもそもお土産いらないところもあるんじゃないかと…………。

気分転換に品物を戻して、また一回りする。土地柄、デリカで七面鳥を焼いているのは分かるが、その向かいに寿司売り場があるのが親しみを感じる。日本のスーパーにも売り場の横に持ち帰り予約用のハガキがあるよね。

隣の売り場は日用品や化粧品。二回は雑貨、オモチャ、子供服。友人やお世話になった先生にならポストカードやクリスマスカードもありかな? ショップバックも、荷物が入りきらなかったら30ユーロもするけど買おうかな? 嫌だけど。雑貨売り場は日本の100均の売り場に似ている(値段は品物相応だ)。

三度(みたび)、お菓子売り場へ。結局、さっき戻したやつと全く同じ品物を籠に入れ直す。数が足りるか計算する。そもそもバイト先は人数がうろ覚えだし、たまにシフトが変わったりすると人数も変わるし。大学の先生も、小さいお菓子を小分けして全員に、と思ったけど、明らかに接点が少ない先生にはかえって訝しく思われそうだし、私だってお世話になった人とか、あげたいと直感した人にあげたいし、そもそも、その不義理を恐れた過剰な平等さが、かえって私の人間関係への情緒的なコミュニケーションを薄ぼけたものにして孤立を促してきたのだろうがっ…………

ぼっーとした頭のまま会計。キッシャーが座って仕事をしている。いいね。立ちっぱなしは疲れてしまう。レジ打ちはしたことないけど、確定申告の会場でアルバイトをした時、立ちっぱなしがかなり辛かった。そもそも、どうしてレジ打ちは立ってしなくてはならないのだろう。接客業は立って仕事した方がきっちりして見えるから? じゃあ、役所の窓口や郵便局の窓口は接客業じゃないのか? レジ打ちを必ず立ってやる必然性は?

品物をエコバッグにつめて、抱えてホテルに向かう。品物がエコバッグの口からはみ出し、マドレーヌの袋が山のように目の前を遮る。

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これって、車椅子の絵だよな? 車椅子優先の通路なのかな? 検索の仕方が要領を得ないのか、調べても出てこない。フランス語で自動車教習のページでも見ればあるだろうか。

トラムの線路を横断する。トラムが乗り場に着いたのに振り返る。扉が開き、その足元から乗り場と車体の溝を渡す短いスロープが伸びてくる。昨日、ナント駅前のトラム乗り場で車椅子ユーザーがすいっと一人でトラムに乗るのを見た。青森には路面電車がないし、鉄道の駅では車掌が板を渡して車椅子を押して行くところしか見ていないから、余計に印象的だったのかもしれない。この街のトラムなら一人で移動が出来るだろうと考えられる。

ホテルの入り口手前でマドレーヌの袋がこぼれて落ちた。拾おうとしてしゃがむと、今度はインスタントスープの箱が落ちた。マドレーヌの袋は中身のマドレーヌが潰れないように空気をいれて膨らませてあるから拾いにくい。

「May I help you?」

声をかけてくれたのは自転車に乗った若い男の人だった。大丈夫です、と答えると「Are you alright?」と、もう一度、声をかけてくれた。お礼を言うと、挨拶をして走っていった。

彼を見送るために振り返った時、あっちにはポスターを一面にベタベタ張ったトタンの壁があったな、と思った。昨夜、ホテルに戻るために通ってきた。その中の一枚のポスターに、黒い肌の男と白い肌の女が抱き締めあっているのがあった。男は腕が太くて髪は短い。女は髪が焦げ茶色だった。海外ドラマや洋画はポピュラーなやつを数えるほどしか見ないし、自分と系統が遠い人と話す機会も無かったので、限りなく狭い視野の話しになるが、このポスターの逆は見たことないな。このポスターの言葉が読めれば、もう少し情報が得られるのに。と、思ったけど、暗い夜道で立ち止まって翻訳アプリを開くのが怖くて直ぐ立ち去ってしまった。

私は、彼に親切に声をかけられて安心し、ちょっと感動さえしていた。

だが、その感動はバイアスを苗床にした矮小化されたものだ。それは私の文化度が低いせいである。情緒の鈍さと善良さを凍結しているせいである。

ホテルに荷物を置いて昼食に出かける。

※次に続く

※追伸

お土産をお渡しした方々へ。

旅行記に書いたことは書いたこととして、未熟者が右往左往している様を、さらりとお見過ごし頂ければ幸いです。

寛容さに甘えようとする形になったこと、お詫び申し上げます。

頂いたサポートは、本代やフィールドワークの交通費にしたいと思います。よろしくお願いします🙇⤵️