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【日記】肩書きには頼れるが人間と関係に頼った経験が乏しかった

アレックス・シアラーの『スノードーム』を読んで、2時間ふて寝した。自分に似た登場人物が、その人の歪みが自分の期待したように変わらないまま死んだからだ。

「医者」なら治療で、多少エグみのある話でも聞かせられる。感謝はしてる。くどい話をしてしまったら謝りもする。

「先生」には学校生活、学業の相談が出来る。学業と学校生活に関わることならば多少、私事の話も、出来るだけ自分と距離を取りながらするよう心掛ける。

「両親」には扶養。実家の水回りや小さな庭の手入れ、ゴミ出し、雪かき。自分もやるが、まだまだ手伝い程度。それ以外、「両親」に頼ってきた、あるいは頼っていることは、思い出せたり、忘れたり、あれは違う相手が自己満足でやったんです、と解釈し直したり、解釈し直すことが出来ないやつもあったりで、よく考えることが嫌になってくる。

最近、学業も小説も停滞しているから不安が過りやすい。

さっきまでは就労が心配だった。今んところでも、「ハローワーク」に顔見知りの相談員がいるし、他にも就労について相談員出来る「」(括弧)さんは二つ三つくらいある。窓口に検討はつけてきた。

だが、心残りがある。私は、大学も今のところではないところに行きたかった、と思ってた時があった。今は、今の大学が良い。今の大学じゃなかったらきっと読まなかった本がたくさん読めたし、読みたい本がたくさん出来た。「先生」には、楽しい講義、丁寧な議論の時間と体験、面白い本や話を頂いた。

だが、知り合いで大学を卒業してからかつての私と似たような目標を目指している他人がいる。また、親戚にも自分の働きと能力で、不安定な仕事ながら犬と暮らしている他人がいる。地元の文化芸術に貢献している知り合いもいる。東京に来るときは泊まりに来てね、と言った、研究の調査旅行先で同じゲストハウスに泊まった親子もいた。

もし、私が「ハローワーク」や「医者」に頼れないことを実行したくなったら?

私は、◯◯□□さん、くん、ちゃん、呼び捨て構わず、人間に頼った経験が乏しかった。友達、知り合い、親戚の関係に頼ることに怯えている。

それがわかっているのか「両親」の振る舞いが鬱陶しくなった。「感謝」を強調するようになったように思える時がある。心の中で、扶養は福祉サービス、という呪文を唱えて身を守る。

だからますます、肩書きのない他人に頼ることが恐怖になる。

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