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掌編小説【冒険】

♯クリエイターフェス10/7のお題「はじめてのインターネット」

「冒険」

定年退職した夫が新しいノートパソコンを買った。
今までにも家にパソコンはあったが、私は機械が苦手なので触ったことはない。ついでに人付き合いも苦手なので、スマホさえ、いや携帯電話さえ、いやポケベルさえ(今の若い人は「なにそれ?」だろう) 、持ったことがない。いまだに携帯するのは文庫本だけである。
しかし今、私は新しいパソコンの前に座っている。
なぜか。夫に腹を立てているからだ。

夫からは、お前はパソコンには触るなよ壊すから、と言われている。興味がないから別に言われなくても触る気はないのだけれど、何度も言うから腹が立つ。そのうえ定年になってからは毎日家にいるから不満も積もる。私の堪忍袋の緒の強度にも限界があるのだ。
だから今日は夫が一番嫌がりそうなことをすることにした。腹いせというやつだ。

私はちょっとドキドキしながら電源ボタンをぽちっと押した。
はじめてのおつかい…、ではなく、おばあさんのはじめてのインターネット。
画面の色が変わる。夫が使っているのをチラチラ見ているから、なんとなくはわかる。
しかし、どれくらいで使えるようになるのかわからないので十分ほど待ってみた。そして画面の動きもおさまったようなので、恐る恐るマウスをつかんで適当にカーソルを動かしてみる。ネズミの扱いくらいはわかるのだ。しかし、どこかで力が入ってしまったのか画面が突然変わったので、私はびっくりして手を離した。

すると…目の前に広がったのはズラリと並んだ石鹸だった。
説明を読むとバリ島で手作りされている石鹸、とある。日本人女性が手作りした石鹸をネット販売しているというのだ。そのサイトはデザインもとてもきれいで、石鹸の素敵な香りまで漂ってきそうだった。カナンガ、パチュリ、チェンパカ…。聞いたことのない名前もたくさんあって、どんな香りか想像するのは楽しかった。
欲しいな、と思った。でもさすがに海外から購入するのは怖かった。方法もわからないし。私はしばらく眺めて楽しんでいたが、そろそろ夫が帰ってくるかも、と思いパソコンを閉じた。
帰ってきた夫はなにも言わなかった。気がつかなかったのだろう。私はちいさな冒険ときれいな石鹸を見たことで気持ちが清々したので機嫌を直してやった。

一週間ほど経ったある日、小さな荷物が届いた。玄関先で受け取った夫はだまって私に手渡した。
「これなに」
見慣れない小包だ。外国から届いたみたいな。
「お前にだ」
「なんなのよ」
開けてみて私は驚いた。あの日パソコンで見た石鹸がいくつも入っている。
「これ…」
「お前が好きそうだからな。今月は誕生日だし…。それに、見てたんだろ」
「…気づいてたの」
「パソコンは閉じただけじゃ電源は切れないんだぞ。今度から使いたい時は俺がいる時にしろ」
そうなのか。
私は石鹸を一つ手に取った。『パチュリ』と書かれている。
「これ、どんな香りかなって思ってたのよ」
「なんか墨みたいな匂いだな。きらいだったか」
「ううん、好きよ。ありがとう」
夫は少し照れたように笑った。好き、と言ったのは石鹸の香りのことだけどね。

おわり

(2022/10 作)


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