なぎさ

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最近の記事

渡辺淳一「ふたりの余白」

渡辺淳一のエッセイはぼくの人生の教科書だ。同じ高校出身の先輩で、医師であるということも関係しているのかもしれない。ともかく渡辺淳一のエッセイは、どこかにぐっと来るポイントがあり、ぼくはいつも少し泣いてしまう。 「若いというのは、風の強いそそり立つ稜線を、ひたすらまっすぐ歩いていくようなものかもしれない。  まっすぐ進めば、いつか強風で吹き飛ばされる。それを承知で、なお進む。どのあたりで飛ばされるかわからない。だが先へ行かねばならない。 …そして多くの人がある日突然、尾根から

    • 死ぬの怖い

      死ぬのめっちゃ怖い。脳が現象を映し出しているわけだから、死んだら無になると思っている。無になったことを想像するとめっちゃ怖い。 けど、死はすぐそばにあるって分かっている。遠くのものでなくて、身近に死は存在している。

      • 割烹やさんに行った

        きのう、東京に来た父に割烹やさんに連れてってもらった。 こころの「両親と私」ではないけれども、大学で関わらせていただいている、尊敬し親しみを持つ先生たちとは血縁がなく、父親と血縁があるというのは不思議だ。東京で得た空気で、自分は変わっているのか、分からないけれども。ま、和食おいしかったし、父親も変わらず元気そうでよかった。

        • レポートやれない

          やらなければならないレポートのやる気が全く起きない.レポートについて訊いてくれた同期にまだやってないとはとても言えず未読無視しまっている. なんだかやりきれなくなってしまった.自分は何もできない.頭が悪いし,音楽もできない音痴だし(好きなのに!),人間関係のこともよく分かってないし,ひととうまくしゃべれない.家に帰って布団に寝ているときが一番落ち着く.だけどさみしかったり. 20歳も半ばすぎてしまった.なんにもできてない.人にも優しくできない. どんなひとにも優しいひとはい

        渡辺淳一「ふたりの余白」

          I was born

          藝大美術館のコミテコルベールアワード2022展をみてきました.「不完全な美」がテーマというところに惹かれていたのです. そのなかで,高野真子さんのI was bornという映像作品がとてもよかったです.おそらくご自身が子宮内膜症にかかられて,その体験をもとにした作品だと思います.豊かな映像と,音楽,私たちにそっと語りかけるような言葉によって,作品世界に入り込んでしまったようです. I was born.やはり受け身形なのだ.という言葉がありました.産むということは,新たな

          I was born

          2022年8月31日

          死なないでほしい。どうか生きていてほしい。 この記事を見てくれる人がいるか分からないけど、もし目に止まったら、そしてもしも死にたいとか思っているなら、どうか生きていてほしい。 学校はつらいかもしれない。いまは学校しか世界がないかもしれない、けど、大人になるにつれてどんどん世界は広がっていって、好きな人々とだけ深く関わればよい、そうなっていくのだよ。 お兄さんだってまだ20歳、20代に入りたてで、大人とはいえないし、人間関係のこととか、分からないことだらけだよ。最近、付き合って

          2022年8月31日

          2022年8月25日

          人と較べるのに疲れてしまった。人の目を気にするのにもう疲れた。 もっと過敏な人、気にしいな人がいるのは分かっているのだけど、母や父が周りの評価、承認を特に気にする人だったからか、人の目を気にしてしまう。 人と較べず、ひとり遊びができるようになりたいと思う。中島らもさんが、ほんとうの教養とはひとりで時間をつぶせる能力のことだといっていてまさにその通りなんだと思う。

          2022年8月25日

          2022年8月23日

          恋愛は人に土足で踏み込むわけで、だからそれは友愛とはぜんぜん違うんだ。恋愛は人と自分へのあくなき好奇心から欲求が生じるんだ、というようなことを上野千鶴子が言っていた。そうだ、だから恋愛と友愛はまったく区別されるものなんだ、ということがわかってすこし驚き、というか衝撃。友愛と恋愛の区別がよくわからなかった、だけど恋愛というのは相手のことを深く知ろうとすることなんだ、だからそれは自分を知ることにもつながるわけで、だけど相手のことだって自分のことだって本当にわかることはないんである

          2022年8月23日

          2022年8月11日

          きょうはお家で勉強していた。1hごとに集中力がもたなくて、休憩!と思って布団でスマホみてると30分とか経ってしまって後悔する。 勉強することは山積みである。成績を振り返ると、学科内では真ん中の下の方であるので、勉強を頑張っている!というのでないに代わりに何をしているという訳でもない。ジャズ研は好きでフルートを練習したりしているけれど、特にうまい訳でもない。なんにも得意なことないなーというかんじである。 みながきらきらしている。私はほんとうに普通であるなあ、ぜーんぜん特別な

          2022年8月11日

          2022年8月10日

          今日は個別指導のバイトして、家に帰って勉強をしていたがあまり集中できなかった。個別指導で受け持った子はこれから勉強を始める感じだが、なんだか感じの良い子でよかった。 ところで、表現の目的は、自分はこういう人ですよ、とわかってもらうことらしい。茂木健一郎さんがいっていた。この日記をかくことで、少しでも文章にうまくなって、私のことを表現するのにうまくなれるだろうか。 逆に、私はまわりの人のことを分かっているだろうか。私は周りの人の居場所になれているだろうか。友達や恋人、個別指

          2022年8月10日

          2022年8月9日

          きょうはセッションだった。もっとフルート練習しないといけない。ジャズは難しく、奥深い。まだまだ入口に立っているところである。 研究室はたのしい。厳しめの先生だけど、自分で勉強する姿勢を学んでいると思う。大学は勉強するところだ、という当たり前すぎる事実を学んでいる。自分で何とかする技術を身に付けないといけないのだと思う。 最近は、ひととの境界線をやっぱり明確にすることを考える。診察のシャドウイングで先生は患者の話をまったく遮らずきいていたが、それはお仕事であって、感情移入・深

          2022年8月9日

          2022年8月8日

          ずいぶん遠くに来てしまった。2年生になって、研究室に頻繁じゃないけど行かせてもらって、部活の先輩とかとも仲良くなった。バイトも結構楽しくて、恋人とも仲良くさせてもらってて、なんだかずいぶん遠くに来てしまった。 でも、不安になる。なんだか突っ走ってしまったようだけど、大事なことを忘れてはいないか。なにかひどく重要なことをどこかに置いて来てしまったのではないか。こんな自分でいいのか。 なんだか硬めの文章を書いてしまった。 まあ…でも最近はバイトが楽しくて、ああひとのために何

          2022年8月8日

          2022年8月7日

          今日は大学に行って部室でフルート練習して、図書館で勉強していた。勉強は最初の1時間くらいは結構きついけど、結構眠気とのたたかいだけど、その後は徐々に楽しくなるって感じ。勉強自体は面白いし、ちゃんとやったら時間はすぐに過ぎていくのだろう。 一人だと不安になる。特に夜。こんなんでいいのか分からなくて、スマホぼーっとみてLINE確認しちゃう。こんなんじゃいけないんだろう。時間がもったいないんだろう。一人の時間を楽しむ、一人遊びができるってのが教養のある人だって中島らもさん言ってた

          2022年8月7日

          2022年8月6日

          勉強のやる気が起きない。試験が夏休み明けにあるというのに、きょうは10時に起きて登山の計画を立ててぼーっとしていた。昨日は近くの里山の登山をしてきた。帰りに温泉に入って気持ちよかった。明日も天気がよさそうだししたいけれど、勉強もしなければならないから迷っている。バイトもしてただでさえ時間がないのだから、スマホみてぼーっとしている時間はだめだなって思う。先週1日しか行けなかった研究室には月曜日に行こう。 生きることは苦しいのに、新たな命を生み出してしまっていいのだろうか。生ま

          2022年8月6日

          河野裕「いなくなれ、群青」

          これは弱者の物語でした。読み始めから文体が村上春樹に似通っていましたが、最後になってその理由がわかりました。羊をめぐる冒険で鼠はこういいます。 「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」 「人はみんな弱い」 「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」 それぞれに特別の事情を抱えた弱者が弱さを抱えたまま、権力あるいは

          河野裕「いなくなれ、群青」

          ドストエフスキー「罪と罰」

          ドストエフスキーは偉大である。もともとえらい人だとは聞いていたが、こうもえらい人だとは思わなかった。ラスコリーニコフの主張、つまり人間は凡人と非凡人にわかれ、非凡人は社会の進展のために必要な悪は犯すべきだということ、100個の善のためなら1個の悪は犯してよいという主張は、なかなか論理的に強い主張のようだ。青年なら自分は非凡人だ、なる考えはうっすらでも持ったことがあるのではないか。自分はある。うぬぼれというか、自負心というか、そういったものがとてもラスコリーニコフと自分で重なる

          ドストエフスキー「罪と罰」