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2022年8月10日

今日は個別指導のバイトして、家に帰って勉強をしていたがあまり集中できなかった。個別指導で受け持った子はこれから勉強を始める感じだが、なんだか感じの良い子でよかった。

ところで、表現の目的は、自分はこういう人ですよ、とわかってもらうことらしい。茂木健一郎さんがいっていた。この日記をかくことで、少しでも文章にうまくなって、私のことを表現するのにうまくなれるだろうか。

逆に、私はまわりの人のことを分かっているだろうか。私は周りの人の居場所になれているだろうか。友達や恋人、個別指導の先の生徒もそうかもしれない、そういった人たちの少なくとも居場所に私は、なれているのか、ぜんぜんわからない。

ともかく、私は勉強をしないといけない。勉強をして、患者の苦しみが分かる医師にならなければならない。何者かになるということではない。そうではなくて、多くの人を幸せにするということが何よりも大切なはずだ。

だけどこれを数年後読んだとき、なんだかふわっとしていてまだまだ未熟だな、と感じるかもしれない…。いや、感じるのだろう…。

全然話は違うけど、中島らもさんの「その日の天使」というエッセイが僕はいっとう好きだ。

「その日の天使」

一人の人間の一日には、必ず一人、「その日の天使」がついている。
その天使は、日によって様々の容姿をもって現れる。

心・技・体ともに絶好調のときには、これらの天使は、人には見えないもののようだ。
逆に、絶望的な気分に落ちているときには、
この天使が一日に一人だけ、さしつかわされていることに、よく気づく。

こんなことがないだろうか。
暗い気持ちになって、冗談にでも、“今、自殺したら”などと考えているときに、
とんでもない知人から電話がかかってくる。
あるいは、ふと開いた画集か何かの一葉の絵によって救われるようなことが。
それは、その日の天使なのである。

僕のきょうの天使は、何だったろう。電車で一緒の車両に乗っていたひとのきょうの天使は、何だったのだろう。インターネットの片隅の片隅でこの文章を見つけてくれて読んでくれているあなたの今日の天使は、何だったのだろう。

なんだかかっこつけてしまったようでとても恥ずかしい。反省…。

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