渡辺淳一「ふたりの余白」

渡辺淳一のエッセイはぼくの人生の教科書だ。同じ高校出身の先輩で、医師であるということも関係しているのかもしれない。ともかく渡辺淳一のエッセイは、どこかにぐっと来るポイントがあり、ぼくはいつも少し泣いてしまう。

「若いというのは、風の強いそそり立つ稜線を、ひたすらまっすぐ歩いていくようなものかもしれない。
 まっすぐ進めば、いつか強風で吹き飛ばされる。それを承知で、なお進む。どのあたりで飛ばされるかわからない。だが先へ行かねばならない。
…そして多くの人がある日突然、尾根から落ちた。
…そこに落ちてみて、人々は初めて若さというのは才能でなかったことを知る。
若くて、美しいということは、ごく平凡なことであったと知る。
若くて、純粋だということは、ごく平凡なことだと知る。
自己の青春の把握というのは、まずこのことを知ることから始まるのかもしれない。
この事実を基に、じっくりと自分を見つめる。
その訓練を積めば、ある日突然、悲劇的な落ち方をしなくて済むかもしれない。しっかりと足を踏みしめて、さらに高く登れるかもしれない。」

若さというのを、無駄にしているのではないかと不安になっていたから、若さの捉え方を学んだ。若いゆえの純粋さ、美しさは誰しも持っている当然のもので、その純粋さをどのように使うか、が大事なのだと学んだ。

 「若くして見た死の種々相は、あまりに無為でなにもなかった。ナッシングそのものだった。」

医学生として見た死は、まさにナッシングそのものだった。僕の死生観は、渡辺淳一に近いと思う。霊魂の存在を信じていない。

そのうえで、
「死を思うと、これではいけない、なにかしなければ、という気持に駆り立てられる。この短い命を平凡に過すのは惜しいと思うようになる。
死が無であればあるほど、今のいっときが貴重なものに思えてくる。
その意味で、死は決して一つの終末ではない。
それはまさしく無で、見事な消滅ではあるが、そこから新しいスタートがはじまることも、また事実である。」
と述べる。

死はナッシングそのものである。しかしそこから、生への意志なるものがわくということも、事実なのだろう。

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