生活をする以上、家事を避けて通ることはできない。 得意と不得意というのとは違って、どうしても好きになれない家事というのはある。 結婚して家庭を持った時に、嫌いな家事の筆頭だったのが、アイロンかけだった。洗濯し終えて乾いたシャツに軽く霧吹きをし、アイロンをかける。シワが綺麗にならず、やり直そうと試みて違うシワを作る。そういうことを繰り返すうちに、途方に暮れた。 ノーアイロンでも着ることができる、という謳い文句のシャツを試してみたりもしたが、仕上がりに納得いかないのは変
中之島で「モネ」やってるから行こうよ。 気の置けない友人の誘いで行ったのは、大阪中之島美術館の、モネ展だ。 クロード・モネが、印象派と名乗る以前の作品から順に並べられた展覧会で、写実的な作風から次第に光を意識した、モネらしい、と感じる作品に移行していくのが、あまり知識のない私にもわかった。 面白かったのは、朝靄の中のウォータールー橋やビッグベンといったロンドンの風景を、帰国後アトリエにカンバスを並べて同時期に描いたという作品を、同じところに集めて展示されていたことだ
ついに娘が旅立った。 進学のために、家を離れ、大学内にある学生寮に住むことになったのだ。 合格発表の後、指定された入寮の日まで期間は短く、慌ただしく荷物をととのえて出発した。 インターネットで注文した日用品ひと箱と、寝具一式。家から送り出した段ボール箱3箱とスーツケース2個の荷物。同じ寮の新入生では少ない方だったらしい。夜までには片付けもひと通り終えたそうだ。 娘の好みで、コンパクトな暮らしを心がけているとはいえ、季節の変わり目の寒暖差に対応するための衣類がずいぶん
夢うつつに、汽笛を聞いた。 年の瀬を前に、家族で帰省した日の夜、母がととのえてくれた寝床で眠りについた夜のことだった。 この時間に走るのは、きっと貨物列車だろう。コンテナを連ねた長い車両が鉄橋を渡る光景がまぶたの裏に浮かんだ。 父はもうどの線路の上にもいない。どの現場の責任者を務めることもない。線路上で事故に遭うことはもはやなく、その最後からもずいぶん経つというのに、父に何もないことを祈った子どもの頃のように、胸がざわついた。 少し前に、父の七回忌のために私一人だけ
2月の朝、澄んだ空気は冷え、吐く息は白い。 高校受験、第1志望校の入試当日。遅刻しそうな私は、試験会場の最寄り駅の改札から、父と別れ、泣き出したい気持ちで駆け出した。 家を離れ、県外の志望校を受験する私に、父が付き添ったのは、母がついたばかりの職場で休みを取りにくかったからだ。母になら言えることも、父には言い出し辛い。心許なくなかったが、仕方ない、と割り切るしかなかった。 旅行代理店が「受験生パックの宿」とうたったホテルには、私と同じような受験生とその家族がいた。当
子どもの頃、友達の家のおひなさまに憧れた。 友達のおうちには、立派な七段飾りが飾られていた。緋毛氈にずらり並んだ三人官女に五人囃子、右大臣・左大臣、仕丁、お道具の数々、そして見上げる高さにあるお内裏さま。表情の豊かさ、衣装の細かさ、どれも素敵に見えた。なにより七段飾りそのものの、部屋を圧倒するような堂々とした存在感に憧れた。 私のとは違う。子どもの目には、友達のおひなさまの華やかさや圧倒的な存在感に及ばず、見比べてがっかりした気持ちになった。 私の雛飾りは、母方の祖
結婚で実家を離れ、自分の家庭を持つことになった。 夫という人は、あまり整理整頓が得意ではなかったようで、結婚前の住まいは仕事に必要な服と、たくさんの本、そしてすべてがうっすら埃にまみれていた。掃除はあまりしないがゴミを出す習慣だけはあって、いわゆるゴミ屋敷の状態ではなかった。その点だけはホッとした。 とはいえ初めのうちは、日々の暮らしについてすり合わせが必要だった。食事の支度や衣服を整えることもそうだったが、一番手間を取られ、ストレスに感じたのは、部屋の整理整頓だった。
まもなく小学生になる娘と、それまでの自転車をやめて、徒歩で幼稚園へ登園していた時期があった。 しっかり歩かせてあげておくといいよ。小学校へは自分の足で歩かないといけないからね。先輩のお母さんたちに、そう助言されたことがきっかけだった。 その頃、わが家のある集合住宅の周囲一面が田んぼで、夏になると蛙が合唱しているような場所だった。畦道を抜けて幼稚園に向かおうとすると、稲の成長がよくわかる。 春はヒバリの賑やかな声を聞きながらタンポポの綿毛を吹き、初夏は燕がつい、と低く飛
曲がり角の向こうに、どんな道がのびているかわからない。 10代の頃に読んだ「赤毛のアン」、人生の指針ともなったその本に、そんなくだりがあったことを思い出す。目の前は真っ直ぐ見通せたように思えたあの頃から、私は曲がり角をいくつたどってきたのだろう。 そしてまた、曲がり角が現れたということなのか。 夏休み、高2の娘はのびのび過ごしているように見えた。親のそばで、子どもらしく過ごせる最後の夏休みになる可能性があることも考えて、たくさん話したり、一緒に家事をしたり、旅に出た
残暑の頃、それは始まった。 高2の娘は、朝起きられずに登校が叶わない日が続くようになった。学校に行けなくなるのは初めてではないが、高校生になってからはなかったので、久しぶりのことだった。 はじめのうちは、身体的な異常を自分でも理解できなかったようだ。 何が起きているのか説明できず、自己嫌悪に苦しんでさらに悪化する、嫌なループに陥っていた。 娘は感じていることや考えていることを、言葉にするのにとても慎重で、時間がかかった。 心のうちの不安や絶望をそのまま乱暴に言葉
夜半に降りしきった雨が上がり、窓の外に薄く朝日が差してきた頃、父が亡くなった。6年前、1月のことだった。 前夜、救急搬送された報を受け、慌ただしく駆けつけた病室で対面した父は、いつもの寝顔で横たわっていた。 「声をかけたら起きてきそうじゃろ? でも、もう起きんのんよ。」 弟が抑えた声で言うのを呆然と聞いた。 諦めきれず涙が溢れたが、父がこの世を去る瞬間を迎えることに、私もゆっくり覚悟を決めなくてはならないのだった。 夜が明けて、父は帰らぬ人となった。 その半月ほ
学校から帰宅した娘は、静かに涙を流していた。 食事を用意していた私は、娘が泣いているのにすぐに気付けなかった。 何かあったの? 尋ねても無言のまま、頬を涙が流れるままにしている。ティッシュを渡したものの、拭くこともしない。 理由を尋ねても首を振るばかり。続けて尋ねると、今度は唸り声をあげて私の問いかけをシャットアウトする。握ろうとした手も振り払われた。 なにも言いたくないのだろうな。 そう察して、尋ねるのをやめた。 もうずうっと前のこと。 幼い頃の、娘の姿
電車に揺られるうちに、三宮で隣の席の乗客が入れ替わった。車窓側の景色が開けて、そのうちに海が見えた。 父の七回忌、私は電車で、母の待つ実家へ帰ろうとしていた。今回は受験生の娘と週末も仕事が続く夫に留守番を頼み、一人での帰省となった。こうして一人、電車で帰るのは何年ぶりだろう。 あいにくの曇り空、低気圧が近付き、海の上は風があるようだけど、それでも瀬戸内の海は穏やかだ。 「かもめの水平さん」を思い出すんよ。 母がそう打ち明けた時のことがよみがえる。 私の母は大阪で
50歳を迎える直前の秋、夏からずっと続いた活動がひと段落した頃のことだった。 書店でなにげなく手にし、書名にぐっと惹きつけられた本があった。 ヤマザキマリ著「たちどまって考える」。 国を越えて生活する著者の家族のコロナ禍での暮らしのようす、文化の違いからくる自粛生活の違いを綴ったものだ。イタリアと日本の二元生活を送っている著者は、コロナによって文字通り日本に「たちどまって」しまった生活を息苦しく感じるはずが、むしろ歴史を振り返って、パンデミックは繰り返されてきたと達観
君の物語を 絶やすな 絶やすな これから目にするものを 恐れるな 恐れるな ーーーRoth Bart Baron「極彩色IGLs」 どうしても耳から離れない曲というのはあるが、これはその一つだ。 静かで美しいのに不協和音が交じる旋律、淡々と繰り返されるリズム。絶えることなく続く日常のような、その奥にひたひたと生きる気力が湧いてくるような。 これからの私のためのテーマソングに出会ったのかもしれない。 くり返し聴くうちそう思ったのは、50歳を迎える誕生日の前のこ