深夜の汽笛

 夢うつつに、汽笛を聞いた。
 年の瀬を前に、家族で帰省した日の夜、母がととのえてくれた寝床で眠りについた夜のことだった。
 この時間に走るのは、きっと貨物列車だろう。コンテナを連ねた長い車両が鉄橋を渡る光景がまぶたの裏に浮かんだ。
 父はもうどの線路の上にもいない。どの現場の責任者を務めることもない。線路上で事故に遭うことはもはやなく、その最後からもずいぶん経つというのに、父に何もないことを祈った子どもの頃のように、胸がざわついた。
 少し前に、父の七回忌のために私一人だけで帰省していた。その時に、父のことをたくさん考えていたせいかもしれない。汽笛を聞く時に味わう胸騒ぎを、懐かしく思い出した。

 父は、鉄道会社に勤めていた。父の父も、同じ鉄道会社に勤めた。親子二代といえばそうだけど、当時は手堅いと思われた勤め先を選んだ、ということだったのだろう。
 父は子どもの頃の事故が原因で、指先に少し欠損があった。日常生活に問題はなかったが、そのことで私には祖母に当たる母が、とても心配していたという。そこで祖父の勧めで、鉄道会社の中でも電気通信工事に関わる部署で仕事をすることになったと聞いた。
 職についた後も思いがけない事故にあった。現場で高圧電流が体を走り、抜けていったという。その場面のことを父から詳しく聞くことはなかったが、父自身が書いた文章を読む機会があった。
 雷に打たれたような体験をしたのに、作業着が少し焦げただけで済んだことを、父は、生かされた、と感じたようだった。のちのち、
「生きとったらなんとかなる」
「“心こそ大切なれ”で、ええんじゃ」
「人柄が大事じゃ。(周囲の)人に恵まれんかったら、不幸じゃ」
と繰り返し言っていた。

 父(と母)を慕って、訪ねてくれる私の友達がいた。家族の悩み、ほかで言えない心の痛みを、打ち明けるともなく、私の両親とおしゃべりしながら一緒にお茶を飲んだり、ごはんを食べたりしているうちに、悩みは解決してはいないけれど、気が晴れたような明るい表情になって、帰っていくのだった。
「なんか、くつろぐんよ」
と言って、私が嫁いだのちも訪ねてきてくれた。

 父が正規の定年を迎える少し前、なぜか決まった曜日に、ケーキを買って帰ってくるようになった。
 父の職場に近い、チェーン店のものだった。
ただお土産にしてはぞんざいな感じで、私の好みとも違っていた。どうしてこのケーキ屋さんなの?と、つい尋ねてしまった(お土産にもらっているくせに)。
 すると、いたずらがバレたような顔をして、
「お見舞いの手土産にしとってな」
と言った。
 その頃の父は、職場で、いろんな社員さんに関わる立場になっていた。その中のお一人が、長期で入院をされていると言う。ご病人はもう長くない。付き添われているご家族をいたわるために、ちょっぴりケーキを買って差し入れしていると言うのだった。

 その昔、熱心な組合活動でたくさんの人に囲まれていた人なのに、そうした状況になってみると誰も訪ねることのないご様子だった。父は、立場からすれば真反対で、対極の信条の方のはずだった。でもその方への冷たい対応を知って、怒りを感じているようだった。心がない、と悔しそうに言っていた。
 また、その方の人生の最晩年に、ひっそり寄り添っておられるのは、奥さんと娘さん、ご家族二人だけということに、胸が痛んだそうだ。交代でご病人に付き添われるその方たちのために、と不器用なりに気を利かせ、ケーキを携えて週に一度、病室を訪ねていたのだった。

 その方がついに亡くなったあと、弔問の折にご家族から、こうしてたびたびお見舞いに来たのは父だけだったこと、そして繰り返し父への感謝を伝えられた、と聞いた。
 誰も見返ることのなくなった人と、そのご家族を訪ね続けていた父。思えば、そんな思いやりを人に向けることができる人だった。
 私の同級生が、偶然、父の同僚となったことがあった。ハンディキャップをお持ちだが、明るくがんばり屋さんの彼女を励ましたかったらしく、昼ごはんに連れ出したりしていたことを、のちに彼女と再会が叶った時に教えてもらった。そして、そんなふうにしてくれたのは、父だけだったとも。

 いいことばかり思い出してもらえるのは、先に逝ったものの特権かな。
 父なら照れてそう言うだろうな。
 母が健在であること、私たちが父を思い出しながら幸せな気持ちになるのは、まわり回って父のおかげなのだろう。そう思える今、私はやはり幸せなのだ。
 父を失った悲しみは悲しみのまま、そう思えるようになった。
 お父さん、ありがとう。


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