すっきり暮らしたい

 結婚で実家を離れ、自分の家庭を持つことになった。
 夫という人は、あまり整理整頓が得意ではなかったようで、結婚前の住まいは仕事に必要な服と、たくさんの本、そしてすべてがうっすら埃にまみれていた。掃除はあまりしないがゴミを出す習慣だけはあって、いわゆるゴミ屋敷の状態ではなかった。その点だけはホッとした。
 とはいえ初めのうちは、日々の暮らしについてすり合わせが必要だった。食事の支度や衣服を整えることもそうだったが、一番手間を取られ、ストレスに感じたのは、部屋の整理整頓だった。読みかけの本、毎日持ち歩く鞄、財布や鍵をどこに置くか。日常的に使うもの、爪切りや耳かき、保存しておきたい書類。夫は、私には適当に置いているようにしか見えない置き方で、片付けているつもりのようだった。
 なにより、本を手にすることが仕事であり趣味、もはや道楽の要素もある夫。結婚時すでに所有していたのは、一般家庭の平均的な蔵書数をはるかに超えていた。ある程度理解はしていたが、そのうちに膨れ上がることは予想できた。私もまた本を読むことが好きだったからだ。
 常に探し物をするような生活は嫌だと思った。探し物に明け暮れるような時間は、人生の損だと考えていた。
 探し物が得意でない夫のために、あれどこ?と尋ねられてその度私が夫の前に取り出す、みたいな生活はしたくない。私は家政婦ではないし執事でもない。せめて、そこの引き出しに入ってる、と答える程度にして、自分で取り出すようにしてほしかったし、それをまた同じ場所に戻すという習慣を身につけてほしかった。同じ物を、次に私が使うこともあるわけだから。
 初めは試行錯誤したけれど、何度も伝えて、叶わなくて苛立ったりもしながら、次第に自分で取り出して使い、また同じ場所に片付けてくれるようになった。

 娘を授かり、その成長とともに、ものの配置には神経を使った。幼い娘はなんでも掴み、口にする。危険がないよう目を配り、娘が手の届かない場所にものを置くようにした。今となっては多少の失敗があってもよかったのでは、とも思うが、その頃の、“初心者マークのお母さん”の私は、娘を危険から遠ざけておくことばかりに執着していた。
 そのうちに娘も成長し、私の片付け方を見よう見まねで従ってくれるようになった。学校のロッカーの整理整頓も上手だったらしい。毎週持ち帰る校内着も、ランドセルにきっちり収めて帰ってきたのを覚えている。
 ただ、慎重なところのある娘は、始末しては後悔することがあるかもしれないという不安が高じて、学校のプリント類などなんでも保存した。それも丁寧に整理して取っておくものだから、その保存ファイルを収める場所に困るようになった。中学に進学するタイミングでその見事なファイルを見返し、自分で呆れながら「溜めビョーキだ!」とぼやいて勢いよく処分した。溜める一方なのではなく、取捨選択することも整理整頓のうちと学んだようだった。
 その整理整頓に、拍車がかかった出来事があった。  
 大阪北部地震だ。

 朝、夫と娘もまだ家にいた。目の前の家具は崩れるまでもないがずれ動き、書棚から本が落ち、食器は棚の中で激しく音を立てた。突然の激しい揺れになす術もなく、ショックを受けた。
 幸い、私たち家族には怪我はなかった。とはいえ、よかったとひと言では言えないほどの衝撃を受けた。
 しばらく休校になった娘と、家の中の片付けをした。物が凶器になるとはこのことか、と思い知らされた後の私たち、
「溜めビョーキで、本当に死んじゃう!」
と、娘と合言葉のようにして、家中のものを迷いなく整理整頓しまくった。
 家具もその対象になった。テレビを置いていた高さのある棚は片付け、代わりにずっしりした和箪笥を上下に分けて低くし、その上にしつらえた。万が一、テレビが落下しても低い位置だとそう不安がないし、和箪笥のような古く愛着あるものを身近に置くことで、ホッとすることもできた。
「本当に大切なものは少しでいい」
 余震に怯えながら片付けるうち、心底そう考えさせられた。

 難題は夫の蔵書だった。本は重く、簡単に片付けられない。大まかなジャンルに分け、著者名や出版社ごとに整理しながら、崩れた書棚を組み直し、地震に耐えられるようにしつらえながら、本を置き直した。
 ひと部屋丸ごとを“本の部屋””として片付け終えた時、わが家の蔵書専属の司書だね、と夫と共に、娘を盛大に称えた。蔵書整理は、わが家にとっては一大事業となったのだった。

 あれから日が経ち、また、暮らしが変わる。
 まもなく、娘が日常暮らす場所ではなくなるわが家。私たちも少し年齢を重ねた。暮らしを見直すなら今だ。そう考えると、私はどう暮らしたいのだろう。何を優先したらいいのか。
 安全であり、健康的である、ということは一番だ。その上で私が暮らしに望むのは、すっきり暮らしたい、ということだ。背伸びせず、自分の手の届く範囲で。
 思い出の品は増える一方ではあるけれど、かといってそうしたものに執着するのは、私に合わない。未練がましいのは嫌だ。
 整理整頓を突き詰める中で、“自分の暮らしに本当に大切なものは何か”を、再び見極めていくことになるのだろう。この先の一生を寄り添い、連れていくものは、きっとそう多くない。
 その見極めの先に、すっきり暮らしていこう。

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