丘の家の思い出


 結婚する前に、ほんの少しの間だけアルバイトしたカフェがある。
 はじめ、年上の友達にランチに連れていってもらった場所だった。
 郊外の、丘の上にある住宅街の中、周囲の住宅より広い敷地にゆったりと建てられた一軒家。他と遮る柵のようなものはなく、自然に緑の濃い庭が続いていた。ペンキで名前を記した看板が表にあり、ようやくお店だとわかるようになっていた。
 古い枕木と煉瓦を使った素朴なアプローチから入り口のドアを開けると、ドアベルがのどかに響き、ジャズがゆったりと流れる室内につながっていた。
 葡萄をかたどったステンドガラスが窓を彩り、真鍮のライトが紅殻の壁紙を温かく照らす、飛騨の民藝家具を配したダイニング。木目の滑らかな椅子は手触りが気持ちよく、座り心地がいい。壁際の大きな和箪笥には、器や雑貨がディスプレイされていた。
 食事に使われた器は手に馴染む陶器もあれば、英国ブランドのボーンチャイナもあった。親しみやすいメニューながら気の利いた味付けの料理は、美しく盛り付けられてあり、食後のコーヒーと一緒に出されたチーズケーキは、皿を重ねて特別な感じを演出していた。

 オーナーは、母より少し上の世代の方だった。ご自身の美的センスを活かして、洋風でもなく和風でもない居心地のいい空間を作り上げ、自分が「美味しい」と思えるものをお出しする、ということにこだわっていた。気取りはないけれどシャネルのルージュは欠かさない、お洒落で、お茶目な方だった。
 友達に教えられてからランチだけでなく、本を1冊持ってコーヒーを飲みに行ったりするうちに、置いてある家具について尋ねたことがきっかけで、オーナーと言葉を交わすようになった。
 ある時、求人のお知らせが貼ってあるのを見つけた。私はそれまで勤めていた場所の契約が終わるところで、次のことを考えていた時期だった。
 こんなところでアルバイトできたらいいな。思いつきのまま申し出てみると、オーナーは、
「あなた、向いてると思う。ぜひ来て」
と二つ返事で答えてくれ、週に何日か働くことになった。

 朝のうちにオーナーが床掃除を済ませた室内の家具を調え、サラダに使う野菜の下拵えをし、コーヒー豆を挽く。お客さんが入ると、席に案内をして注文を取り、オーナーが作る料理を運ぶ。下げた皿を洗い、片付ける。
 オーナーの自宅の一部をリフォームしたカフェなので、奥に拡張したパントリーはあるものの、普通のキッチンだった。その狭いスペースをいかに無駄なく身動きし、段取りを整えておくか。オーナーの采配のまま動くばかりだったようだけど、理屈を教えられたので、説明を受けて納得したら動きやすくなり、私も気働きできるようになった。
 それは私の母の台所とは違っていた。母は既製品を使わず、なんでも手作りしようと努力してくれていた。ただ思い付きで料理することが多く、手順がまずくて、食卓に出されるまでに出来立てのおかずが冷めてしまうことも多かった。そして母が料理した後の台所は、調理台も流し台も、使い終えた調理道具に溢れていた。
 私はオーナーの導きで、よく考えられた台所の繰り回しを、知らず知らず教わったと思う。

 そのアルバイトをほんの数か月で辞めることになったのは、家から離れた場所に嫁ぐことになったからだった。
 オーナーは私の新生活を案じて、小さな知恵をたくさん授けてくださった。料理の手順、火加減、器の選び方、料理につきものの火傷に効く薬まで。思い返すと、あの時に教わったことは私の中にメソッドとして残っている。ささやかな料理教室のようでもあった。
 ちゃんとやれるかな。不安を漏らした私に、オーナーは言った。
「お母さんのごはん、毎日食べてるんでしょう。お母さんが作ったごはんを食べてたら、大丈夫」
 そうでしょうか。オーナーの言葉は、ずっと頭の片隅に残っていた。

 この春、娘が家を離れて暮らし始め、自炊を始めた。
 必要だと思う調理道具や食器は持たせても、日々の食卓を自分で調えることがたちまちに叶うのか。心配で、家を出る前に練習してみる?レシピの本は要る?と何度か尋ねてみたが、本人は涼しい顔で、
「ごはん炊いて、お味噌汁作れたらええやろ」
と答えるばかり。レシピも、食材からネット検索するから問題ないと言う。
 その後、SNSで送られてきた写真には、ごはんと味噌汁、おかずも2品、ちゃんと自分で自分の食事の支度ができていた。それも限られた食材から献立を考え、味付けも自分の工夫ができている様子で、驚いた。
 ある日の写真に、“鶏ももとじゃが芋の甘辛”と私が呼ぶおかずがあった。肉じゃがの変形のようなありふれた煮物だが、鶏ももを炒り付け、生姜を利かせて甘めに仕上げる。食卓に出すと、娘が「やったー!」と喜ぶおかずだった。
 教えた覚えはないのに、私が作るおかずをちゃんと再現していた。

 「お母さんのごはん食べてたら、大丈夫」
 昭和の家庭観からの言葉と言えばそうだ。今の時代、お母さんが用意する食事だけが家庭の食卓とは限らない。その変化を否定はしたくない。
 ただ、オーナーの言葉をも否定したくないのは、ありふれた家庭のごはんを日々食べ続けてきたことが、自分の根っこにあることを認識し、それが娘へと継承されていることを実感したからだ。
 食べることはいのちをつなぐこと。娘が、私が拵えたものを再現していることに、食卓が次世代へ継承され、いのちがつながれていくことを目の当たりにするような思いがして、胸のうちがじんとなる。

 その後、あのカフェは跡形もなくなってしまった。それでも、オーナーの穏やかな声の響きのまま、あの言葉は私の中に息づいている。

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