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「選ばれている」という感覚が、ウチをラクにしてくれた。
人は常に選択している。
それは、朝、目覚めた瞬間から始まっている。眠い、でも、起きる、という選択。そして、顔を洗う選択をしたり、コーヒーをいれる選択をしたり。無数の選択肢のうちから一つ、選び出して生きている。
そして、時間が経つほど、さらに選択は増えてくる。挨拶のタイミングや、要求された仕事に対しての反応など。コンマ数秒の世界で選択を迫られ、その都度、決断をして行動しなければならない。
人は常に選択している。
そんなつもりはない、という言葉も虚しく消える。そんなつもりはなくたって、実際問題、選択してしまっているのだから。そんなつもりはなくたって、選択を誤れば犯罪にだってなってしまう。そんなつもりはない、では済ませられない。
でも・・・、本当に人は常に選択をしているのだろうか。
むしろ、ウチは「選ばれている」という気がしている。
自ら選択をしながら生きているのではなく、常に世界から選ばれながら生きている。
そう考えた方がシックリくるのだ。
人間の行動の4割は習慣によるものだという。極端な話、「歩く」という行動ですらも習慣の一つに過ぎない。いちいち、右足を出した時は、左手を前に振って・・・、と考える人はいない。習慣にしたがい、無意識に行動しているのだ。
こうした習慣すらも「選択」に含まれているのだろうか・・・。考えれば考えるほど、眉間にシワが寄っていく。
「選択」という言葉に、ウチはどうしても「責任」という言葉を結びつけてしまう。「あなたが選んだのだから、責任取りなさいよ」といった声が聞こえてきてしまうのだ。でも、それは、あまりにも残酷なんじゃないかと思う。
ウチは、これまで選択してきたようで、そうならなかったケースが多かった。
真っ先に頭に思い浮かぶのは、高校受験だ。
中学三年のとき、まさに進路という選択を迫られ、自分なりに決断した。自分の学力に見合った学校を選択したつもりだった。だから滑り止め受験もせず、自信満々で受験に臨んだ。
でも、希望の学校には行けなかった。受験に大失敗したのだ。別に体調不良だったわけでもなく、単純に学力が不足していたんだと思う。合格発表で自分の番号が見つからなかった時の、あの絶望感は忘れられない。
あのとき、ウチは「選びたくても、選べないことがある」と学んだ。選択するといっても、そこには「選択するための様々な条件」があったのだ。
そんなとき、親がウチの目の前に新聞を広げた。
「二次募集があるよ」
ニジボシュウ。聞きたくないような嫌な響きをしていたが、放心状態のウチは誘われるように新聞に目を落とした。そこには、聞いたこともないような学校名がズラリと並んでいた。
「これ、ぜんぶ、定員割れした高校なんだ・・・」
希望した高校に入りたくて、塾にも通わせてもらって、頑張ったつもりだったのに。ウチの力不足で全てが台無しになった。受験に落ちるということは、「あなたは要りません」と言われているようなもの。自分は求められていない存在なんだと自覚した。
でも、紙面には「うちの学校に来て下さい!」と叫んでいるような学校たちが並んでいる。
世界が歪に見えた。よく分からなくなってしまった。なにもかも、どうでもよくなった。だから、親の意向に沿うようなカタチで、紙面の中からテキトーに学校を選び、行きたくもない高校に進学することになった。
そして、いざ、高校に入ると、ウチの人生がひっくり返るほどのカルチャーショックを受けることになる。見学にさえ行っていない高校に入学したのだから、そうなって当たり前かもしれないが、その校風に面食らってしまったのだ。
髪型、服装は自由で、先生と生徒の関係もかなりフレンドリー。奇抜な人から、ゴリゴリのヤンキーまでいる。かなり多様な学校だった。まるで自己表現をするかのような人たちが集まり、誰もがのびのびと、楽しそうに学校生活を送っていた。
そのとき、ウチは「選ばれた」のだと思ってしまった。
行きたくない高校だったのに。親に迫られ、仕方なく「選択」したはずだったのに。運命とでもいうのか、「選ばれた」という感覚があったのだ。
自分で選んでいるようで、実は世界に選ばれている。
そう思うようになってから、世界の見え方がずいぶん変わったと思う。やりたいことや、夢を持つことが大切だと言われ続け、大人たちから「選択」を求められることも多かった。
でも、実は自分が選べることの範囲なんてたかが知れている。
「選ぶこと」よりも、この「選ばれた」実感の方が大切なのではないかと思っている。そこに感情は一切関係ない。やりたくなくても、好きじゃなくても、選ばれてしまうことがある。
反対に、いくら気持ちがあっても、選ばれないこともある。それは、もはや自分の意思ではどうしようもないことで、そこでクヨクヨ悩んでも仕方ないことなのかも知れない。
だからウチは「何事も常に選択している」という感覚は薄い。
むしろ、「人は常に世界から選ばれている」と思っている。
今の仕事だってそう。こうして文字を書いていることだってそう。
そうなるように、世界から選ばれたんだ。
だから、ウチは、ここにいる。
そう思えるようになってから、ほんとうに、ほんとうに、気持ちがラクになった。
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