包丁女

1は孤独な数字ではあるものの、さっぱりしている。見た目はもちろんのこと、観念的にもそうだ。
孤独は本人にとって悲劇だが、最初から最後まで彼/彼女の超個人的な問題なので誰にも迷惑はかかることはない。

3は、二者が対立しているときに残りの1人がどちらかに加担して圧政を敷くか、あるいは第三勢力として1対1対1の均衡をもたらすか、裁定者になることができる。数が多い分混沌としそうだが、実は一定の秩序が作られる。

しかし、2はそうもいかない。殺し合いを始めても誰も止めないし、相手に不満があったって向き合い続けるしかない。
1人なら目を瞑れるし、3人なら目を逸らせるが、2人には逃げようがない。1人減らすか、1人増やすか、どちらにせよ(特殊とはいえ)コミュニケーションが必要だ。

減らす場合、日本では刃物が使われることが多い。日常での発作的な行動なので使われる刃物も日常的な物、包丁である。

もし、1の休暇を取りたいとなれば同居人を追い出すほかあるまい。
同居しているということは鍵を持っているということだし、当然、家の場所も知られているから、私がぐーすか寝ているうちに部屋に押し入って殺してくる可能性がある。それでも寝ないわけにもいかないから、いつでも反撃できるように、そして相手に奪われないように、キッチンの包丁をすべて集める。

厚かったり、短かったり、サビだらけだったり、子供用でカラフルだったり、割と多種多様な集めた包丁はすべて枕の横に置いておく。いつでも取れる位置にあると思うと、安心感がある。
が、難儀なことに、今度は包丁自体が恐ろしく思えてくる。

包丁は私の便利で必須な道具として食材を切るのに使われてくれる。とてもいいやつだし、包丁と知り合って…………あるいは包丁を包丁だと認識して、かれこれ14年くらいになるのだろうか。昔からの付き合いだし、案外、危ないやつじゃないことも知っている。
刃に手が当たっても、引かなければ切れない。

しかし、殺し合いを意識した途端、包丁は裏の顔を見せる。人を殺す残忍な面を見せる。
平和な日常の中であんなにも馴染み深い彼らだが、実は人間を殺せる存在であり、私を戦わせる存在でもある。
もし包丁がなければ私の武装はこの拳しかないから相手の命を奪えないし、相手も同様に私の命を奪えない。包丁がなければ命を賭けて戦えやしないのだ。

そう思うと包丁が嫌になった。実際、同居人とある程度の和解をした後も、包丁を見ると萎える。
まあそれも身勝手な話だ。包丁は怒鳴ったり、泣き喚いたり、狂ったりはしない。怒鳴っている人に握られることや、泣き喚いている人に握られることや、狂っている人に握られることがあっても、包丁自体はいつだって動かない。

本当に恐ろしい包丁は私と同居人だったのかもしれない。私は殺すために備えていたし、同居人もどこかの店で刃物を買っていたかもしれない。
それでも1週間もすればまたいつも通りの日常に戻る。

どんな人であれ、1体1で向き合ったら、24時間を共にし続けたら、そういった状況を強いられたら、相手に殺意が湧いてくるのだろうか。
さも人を殺さないような顔をみんなしているが、それは私の無知がそう錯覚させているだけで、この平和は一時的なものでしかないのだろうか。

人間は孤独になるか、他人と共謀してそれ以外を蹴落とすか、争いあって威力を相殺するしかないのだろうか。我々はそんな生き物なのだろうか。

そう思うと今度は、鏡と人を見て萎えるようになった。

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