定年後も働く

あまり介護事情には詳しくないが、一応現時点ではこうメモしておく。
高齢者を働かせることは高齢者自身を含めた全人類にとって有益である。

もちろん、身体能力の低下や本人が乗り気でない場合もあるので、最盛期と同じようにとは思わない。週に4日、3日、6時間、4時間、そのように日数や時間を減らしたり、より自由度の高い勤務制度…………シフト制を導入することも求められるだろう。

これからは高齢者とそれ以外の世代を繋げる、世代仲介者という仕事が必要になるだろう。ネットは非常に便利だが高齢者に新しいことを覚えさせるより、専門的な知識を持つものがサポートする分業の方が効率がいい。宣伝、YouTube撮影、イベントのポスター作成や場所取りなど、仕事はたくさんある。

高齢者が働きに出ることで、介護士への負担が減る。エッセンシャルワーカーである彼ら彼女らの不安定さは許されないため、無くなるのならば喜ばしい。
また、財政上の負担も減る。現在、社会保障費は最も重い税である。

メリット① 金銭的余裕

当然のことながら働けば金銭が手に入る。
高齢者はそれほど活発に消費しないので、必要な金銭も少なく、生活費に大半を回し残りは孫に与えることが多い。そして若い彼/彼女が活発に消費することで経済はより回る。
現在、困窮する老人が増えているが、高齢者が働くことを前提とする社会ができれば彼ら彼女らをいくらか救うことができるのではないか。

メリット② 生産力の上昇

現在の日本では約3割が高齢者で、これからもっと増える。彼ら彼女らが最盛期と同じパフォーマンスを発揮できないとしても、働いてくれるのならば国家の生産力は上昇する。懸念は、高齢者は生産者になりえても消費者としては微妙ということだ。反感は買うかだろうが、高齢者への金銭的な支援を削減することは悪くないかもしれない。
また、アメリカの大学には定年の概念がなく高齢者が活躍しているのに対して研究の質が低下し続けている日本では動ける老齢の研究者が埋もれてしまっている。

メリット③ 老化防止

どう考えても人間は働いているときに最も頭を使っている。職員や研究者が頭を悩ませていろいろ用意するよりも、勝手にさせた方が却ってよいのではないか。試験問題をどう解くかも、ふるさと納税で返ってきた霜降り肉をどう調理するかも、たしかに思考を必要とするが、前者より後者の方に生き生きと取り組むよな。
あと、歳を重ねるに連れて物覚えが悪くなるといっても、慣習は忘れ難い。仮に慣習を忘れたとしても、忘れていない部分を任せて働かせる方が本人も楽しいし他の人も助かるし時間潰しにならないだろうか?人生は結局のところ死ぬまでの時間潰しなのだから。
だが介護施設に閉じ込めれば、彼/彼女は慣習のある場所から切り離され、忘れてしまう。それどころか介護施設の新たな慣習を押し付けられる。

メリット④ QOLの向上

人間は不老不死の夢をもち、部分的に叶える。それは作品とか功績とか、より一般的には子孫という形で。それらは彼/彼女の一部を証明するか、引き継ぐ。人間はそれに喜び、仕事もまた、その営みと言えよう。
そしてそもそも人間は働く生き物なのだ。赤子にさえ乳を飲む仕事がある。なのに、急に仕事をするかしないかの2択を押し付けるような真似は…………しないのが普通、という価値観を押し付けるような真似は…………どうなのだろうか。
ホワイトカラーや都市の住人にはわからないかもしれないが、田舎では、実際に高齢者が働いている。それは農業という形で、自分が唯一の経営者かつ唯一の労働者であるパターンが多いが、それでも彼/彼女という生産者と彼/彼女あるいは近所の人という消費者をもっていて、経済活動と行って差し支えはない。私の祖母はそれによって今も健康だ。
また、核家族化によって忘れられてしまったのかもしれないが、本来の高齢者は家事、育児、家業の指導などの仕事をもっていたはずだ。それがなくなってしまって、必要とされないが故に衰える高齢者と、手が足りない夫婦が、いるのではないか。

メリット⑤ 縦のつながり

古い社会では、家はプライベートかつオフィシャルであった。つまり、家族がいたり友人を招いたりする場所であると同時に、(田んぼや畜舎も含めて)仕事場だった。しかし現代ではそれが分けられ、家はプライベートなだけの空間になり、なおかつ家族が揃うこともなくなった。
若者は若者のいる学校へ、大人は大人のいる職場へ、高齢者は高齢者のいる老人ホームや介護施設へ、というように、年齢による横のつながりはあれと縦のつながりは悲惨なほど断絶している。
ゆえに、どのグループもそのグループの中でやりとりをするだけで、多様性=刺激=発展もない。
そして、継承がない。先人の知恵や奥深い技術、聞こうと、受け継ごうとする者はできるかもしれないが、それは少数だ。だが少数ではダメなことがある。戦争体験だ。
戦争への忌避感と知識は、多数が持たなければ民主主義国家では意味がない。にも関わらず、現状では有志と家族に継承されるのみ。
そしてなまの知識。書物には事実や結果などが残されがち…………というかたいていの書物の目的や書くことの優先順位を考えればそうなってしまうのだが、当時を生きた人々の、考え方や価値観を学ぶのも悪くはないのでは。それらには是非とか真偽とかはないが、人生には、そういったことの方が多い。そして知識は常に、夢とか欲とか、評価のつけようがないものに利用されているだろう。
また、世代間の交流はそんな社会的な意義を持つだけでなく、単に、楽しいって意味でも、それだけでも素晴らしいと思う。

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