投資の悪癖1 真の資本主義について

この記事は養老孟司氏の著書『老い方、死に方』の119ページ〜169ページに対して書かれています。


昨今流行っている…………あるいは流行らせられているサスティナブルな社会、持続可能社会、それはそのまま循環社会を指している。なぜなら、単に消費できる時間を伸ばすだけでは破滅は避けられず、消費に相応するだけの生産が必要になるからだ。

生産とは物質的精神的であるを問わず+である。
では、投資による利益は、誰かが損をした分=−になった分、誰かが徳をする=+になるだけで、なるほどゼロサムだ。前々から投資を数字を使ったゲームみたいだとは思っていたが、このような形で言語化されるとは。すごい。

では、誰かが++=とてつもない快楽を得れば、あるいはそういうものが多ければ、誰かが−=とてつもなくはない苦痛を受けても、あるいは受ける側が少数であれば、許されるだろうか。いや、それは計算不可能であるし、常識・正義・道徳・倫理…………などが許さないだろう。実際、マイノリティへの差別はいけない。

誰かに生産するときに自分の所有物を消費する、幸福は不幸で成り立つ、このゼロサムは−ではないから持続するかもしれないが、本質的にはなにもしていないのと同じになる。しかも実際には、自然環境の一部あるいは大部分という再生=生産不可能なものを消費しているからいずれ終わる。

真の生産は、生産自体が生産しなければならない。つまり生産することあるいは行為することで生産者あるいは行為者自体の幸福を生産すれば消費者あるいは受け取り手と相互に+になる。このときはゼロサムではなくて、幸福の総量が増加している。

私たちはそのような生産を愛と呼んでいる。相手に尽くすことで自分も幸せになる、ということだ。子供が友達から綺麗な石を受け取るだけでも幸せになるように、愛はどんなものにでも付着する。互いを愛し合う社会は非常にエコで、つまり消費が少なく、また文明レベルを落とそうとも関係ないことから理想的である。

問題は、いかに愛するかということ。方法は一つ。共感である。

私たちは同じ人種、同じ性別、同じ趣味の人、同じ過去を持つ人、など共通する部分のある人たちと積極的に関わろうとするし、そういう人たちを優遇しようとする。なぜなら、人間とはさまざまな部分の集合体であり、その一部をもつ他人はその一部において自分だからだ。あらゆる人間は自己愛をもつから、自分の一部をもつ他人を愛そうとする。

たとえば、小説の主人公が自分に似ていると思えば、好きにならないだろうか。いっそ真逆くらいでも逆に面白いが、基本的にはそうだと思う。大葉葉蔵とか小野寺プンプンには結構自分を重ねた。

ともかく、共感が愛を呼ぶ。それをどう社会に取り込むか。
多くの場合、親が子に「自分はできなかった」と言う理由で習い事に行かせたり、昔は学生だった者が「学生時代に受けた恩を返そうと」と教師になったりするような形で行われている。

これをさらに拡大して、単に人間という属性だけで共感し愛すること、それが世界全体の平和の持続可能社会への到達につながるのではないかと思う。
そのためには、一度あらゆる社会的なあるいはプライベートな関係を断つ、という経験が有効そうだ。たとえば、急に見知らぬ人たちと山に籠るとか、メタバースが進展すれば素性を隠して世界中の人と関わることで"人"という部分そのものに触れられるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?