わざわざ個別に記事にするほどではないこと集(下書きの掃除) 随時追加


・人生は黒歴史を作る作業(人生、思想、自己啓発)

人生を真っ白なキャンパスに例えるのはありふれているが、さらに一歩進めて絵の具についても考えてみる。
争いで流す血の色として赤は争い、すべての生物の生まれた海の色として青は創作だろうか。
いろんな色を使って人生を描くが、白いキャンパスに白で描いても意味がないということで使われる色は白以外か。白以外の絵の具すべてを混ぜ合わせたら、真っ黒になる。色々描いてきて老衰で死ぬときの人間の色はきっと真っ黒で黒歴史なんだろう。
生きることがいろんな色を使って描くことなら、真っ黒になることは、かえって彩りを示しているのかもしれない。なら、黒歴史も濃い経験と捉えようではないか。

・小説に書かれたいんだな(創作)


自分の人生や思想を元にした小説・詩を書いてみたい。サルトルやニーチェのように。しかしどうも上手くいかないし、苦しくなる。
私は書きたいのではなく、書かれたいのだろう。
人生の酸いも甘いも作品に昇華させて、そこで「ああよかった」と決着をつけたい。
自分と自分の頭の中を題材にするということは、手にとっては能動的であり、心にとっては受動的なことだ。自分の心を見つめることは手に急かされた受動的なことだから、やっぱり書かれたいのだ。
だから書こうとすると真逆のことだから上手くいかないし、自己嫌悪で苦しむ。
しかしそう考えてみると太宰治は最低だな。恥の多い生涯を送ってきたのならわざわざそれを200ページくらい?の小説にしないで黙って川に沈めばいいのに。その生き汚なさが魅力なのだろうか。

・愛についての小説のアイデア(創作、思想)

ある新進気鋭の劇団のスター女優は己の幼い娘を殺した。夫であり幼馴染であり団長でもある彼は彼女を問い詰める。君の容姿はこれからも大衆を魅了するのに!と。しかしそれが原因だった。
容姿の良さを理由に幼少期から勧誘され、実際その美貌でスターに上り詰めたが、老いは刻々と迫ってくる。それでも娘はますます美しくなり、このままでは唯一の取り柄で負けてしまうと思ってつい殺してしまった。もしあなたが劇狂いではなくて、ただの人間なら、醜く、女優でもなくなった私を愛してくれると確信していた。こんなことをせずに済んだ。そう言われた団長は妻を殺して死体を道具箱に隠した後、急いで脚本を書き始める。題材は、老いを恐れて娘を殺したスター女優だった。彼はどこまでも劇が好きで、人を好きになるとき、その人がどれだけ劇に使えるかしか考えていなかったし、よい劇をすることだけがすべてだった。

・悟りと伝導(思想、仏教)

自分を助けることよりも重要なことは絶対にないが、誰かを助けることはその次に重要だ。
完全に自力で自分を救う人は絶対にいない。仏陀は自分で仏教を作って自分で救われたが、その過程にはたくさんの人の助けがあった。だから悟りを開いてそこで終わるのではなく弟子たちにも教えたんだと思う。
自分を救うために他人の一部を(意識的であれ無意識であれ)利用しているのなら、自分も利用されなければ不公平だし、もし仏陀が自分を救うだけで満足していたら大勢の人が困ったという事実を鑑みても、やっぱり自利の次は利他だよな。

・灰と輪廻転生(思想、仏教)


案外、観念的な考えと科学的な発見は似ている。
たとえば原子は科学によって発見されたが、その考え自体は古代ギリシャの哲学者デモクリトスから始まっている。また、輪廻転生という観念は、同じく観念である(人間の)魂のみに適応されるのではなく、動物や物質にも適応できるらしいことがわかった。
たとえば豚が生姜焼きになって大便になって下水を通りどこかへ行くとしても、消えるわけではない。豚はなんらかの形でまたどこかに再構成される。
私の灰が墓の下に眠っていたら、それはなににも再構成されないだろう。私の生前の体はさまざまなものを取り込んで成長や老化という形で再構成した結果だというのに、私の灰はいかなる他者の一部にもならず、恩を返していないことになる。私の灰が肥料に混ぜられて、農作物が誰かに食べられれば、それは物質的な輪廻転生であり、私の一部はさまざまな生き物と場所に散らばって生き続ける。一方、灰はいずれ忘れ去られるか、ただの名前付きの粉に成り果てるだろう。

・観念とポジティブ(哲学)

哲学と思想を重ねてスーパー・ネガティブからは脱せたが、ノーマル・ネガティブからは脱せていない。別にノーネガの人はたくさんいるからよくない?と思うかもしれないが、彼ら彼女らは常識とか一般教養とかコミュニケーション能力を身につけた上でノーネガなわけで、それらに対する労力と時間を観念に注ぎ込んでしまった私とは違う。私は持たざるものとしてノーネガなのだ。

・ダイヤモンドの境界(哲学、自然)


ダイヤモンドの原石を2つに切ったとして、それは2つに切られたダイヤモンドの原石なのか。
ダイヤモンドの原石を何度も何度も芸術的に切ったとして、それはダイヤモンドなのか。
ダイヤモンドとダイヤモンドの原石の違いはどこにあるのかわからないし、子供の違いもわからない。人間から人間が生まれるのはまだしも、はるか古代に単純な細胞から細胞が分裂するのは親と子の関係と見做せるのか。クラゲは細胞分裂を繰り返しているから親子ではないらしい。人間もある意味では細胞分裂で、その際にズレてるだけかもしれない。そのズレが個体差で、どれくらいズレているかなんてのは、主観でしかない。
また、チンパンジーが自然の生物で人間が自然の生物と見做されないのはなぜか。猿人はどうなるのか。自然に強力な影響力を持ったときから分離された存在になるのか?しかし人間の文明の発展は(不自然の反対の意味として)自然としか思えないし、(環境の意味で)自然ではないか。
ボロボロの服は捨てられたらゴミになるが、ではボロボロの服=ゴミなのだろうか。ボロボロではない服とはなんだろうか。なぜゴミ箱に入った瞬間からボロボロの服ではなくゴミになるのだろうか。

・創作と塩ひとつまみ(創作)

東京恋慕のキルミーエンジェル、あすなろ白昼夢のあくまにズッキュン。共通しているのは、激しいイントロと強く下品なワードと詩的なサビ。

セックスフレンドじゃ満足できないから早くヤろうよ

キルミーエンジェルのAメロ

君の寂しさの穴を埋めてくれる人はいるのかな

サビ

すっぴん淫乱クソ薬中に夢中

あくまにズッキュンのAメロ

眠れない夜ならもう君に届けたいこの気持ち

サビ

ミュージシャン志望でめちゃくちゃ熱がある人に「おしるこに塩をひとつまみ入れるみたいな感じで、下品な言葉と詩的な表現の2つが揃ってるとお互いが際立つよね」と言ってみたところ同意された。やっぱり極端は(コミュニケーションはともかく)創作にはいい。鬼滅もバタバタ人が死ぬがそれで却って命の尊さがわかるのだろう。逆に、誰か死ななければ尊さもわからないのだろうか。たとえば死んでから好きだったって気づいて言ってもしょうがないのにね。

・キモいオタク保護(思想、文化)

結局、他人が他人を100%理解することはない。自分自身でさえ無理だからな。特に自分と離れている人はわからない。なにかに熱中すればするほど熱中してない人とは離れ、ときにバカにされたり、奇異な目で見られる。でもそれは仕方ないと思うし、自然だとも思う。
だからオタクであることとキモいことは割と不可分なんじゃないか。サブカルチャーがメインカルチャー化するにつれて従来のオタク(ハードオタク)はそれほど増えない一方で薄いオタク(ライトオタク)が増え、キモいよくわからん閉じこもった奴らではなく、そういう新しく顧客にもなりそうな人たちに世間の目が向いたが、それは真のオタクではない。旧来の、古典的なオタクは、やっぱり割とキモいもんだと思う。

・存在と孤独(人間、人間関係、存在)

違いこそが個人を個人たらしめる。私とまったく同じ人がいたらとしたらそれは私だ。よくドッペルゲンガーとかクローンとかが創作のネタになるが、どちらも確実に別人だ。前者はまったく同じ見た目でもまったく同じ場所に立てないという点でまず空間的に違うし、後者はまず生まれた経緯という意味で違う。
死者あるいは産まれる前の状態ではすべてがひとつの虚無であり、そこにまったく違いはないから、人格も人生もない。生まれてからそれらが作られ、よって違いができる。違いの有無、0と1、その高低が個人を個人たらしめるのであれば、人生を積み重ね虚無から離れるほど違いが生まれ、死に一種の安楽を見出す。生きる上で孤独は感じずにはいられない。だから民族とか役職とかのアイデンティティの一部で人を見て、孤独を慰めようとするのだろう。

・笑わせる妖精(お笑い)

金を稼ぐことは生きることだ。金なしには生きられないし、まあ生活保護を受けるとしても、それで生き生きと生きられるかというと微妙だろう。
世の中には人を笑わせて生きてる人たちがいる。バイトをしながら50歳になってもその術を磨いてついに大会で優勝した人もいるし、笑わせるために小道具を買って400万円ほどの全財産を使い果たして親友にお金を借りている人もいる。
たくさんの苦行があっても、笑わせることで金を稼ごうと、生きようとしている人たちがいる。彼ら彼女らを世間一般では芸人というが、私からすれば妖精である。人を笑わせて生きる妖精。

・要約魔法(思想)

情報を目的に沿って小さくまとめるのが要約で、そこには当然恣意性がある。それは本文からどこから・どれくらい・どのように抜き出して表現するか、という方法として現れる。
学問のための要約、誹謗中傷のための要約はと違って要約自体が目的の要約は純粋そうに見えるが、それでも少しはズレる。
赤く丸く成人の手で掴めて甘く神話にも登場しパイなどにも使われる果物、リンゴのことだが、この文を要約するとなれば表現がズレることは否めないだろう。50分で読む本を5分の動画にすることはそういうことだ。

・リビドーと可読性(哲学、創作)

哲学史に名を残すくらい偉大で古いガチガチの哲学者の著書はたいへん読みにくく、ショーペンハウエルの哲学入門は入門と銘打っておきながら予備知識がないとまったく読めない。
読むためには著者の感情やリビドーを知っているとよい。なにを好んでいて、なにを嫌っているかを軸に考えると、著者の主観が入るものの読みやすくはなる。逆に、なんの恣意性もない文章は機械的すぎて暗号みたいなもので読みにくい。
ショーペンハウエルは「なんとなく分かるくらいじゃ読む意味ないぞ」とその著書で語っているのでこのような理解の仕方には後ろめたさがあるが、それでも読まないと進まないのだから許してほしい。

・最終目標(哲学)

現実主義者と理想家対極の存在ではあるが、根本的には同一である。極めれば極めるほどそれが分かる。
どれだけ現実的に利益の最大化と損失の最小化を企もうと、その目的は自身か人類の幸福である。
どれだけ自身と人類の幸福を追い求めても、その手段として冷静に計算高く思考しなければならない。
現実なくして理想はないし、理想なくして現実はない。
また、功利主義は「より多くの幸とより少ない不幸を目指す」定言命法だし、義務論も自身の幸せ(つまり全人類が行えば全人類の幸せになる)ということで功利主義的だし、根っこは同じだと思う。

・夢と苦悩(人生、人間)

あらゆる苦は2種類に分けられる。
生理的な苦痛と、精神的な苦悩。前者は生物として当然の反応だが、後者は人間特有の働きである。
なぜかというと、動物は夢を持たないし、繁殖という生き方しか選ばないからだ。
しかし人間は夢を持ち、生き方を選ぶからこそ苦悩する。そうでなければ、CDが売れなくて悩んだり、人に酷いことを言って後悔したりするのはおかしい。

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