「仕事」とは、この世に何を残すか。魂についてと、エンデと福岡伸一への共鳴
その人の魂が、一番震える場所に連れて行きたい。
人が、いのちの水を汲み上げるその源泉、
心の奥、魂の最もやわらかな部分にある、
神聖であたたかな「望みの泉」に。
それが、わたしの望みだ。
プライベートな望みというよりも、この世界という場所で、他者とともに生きる共同的存在としての、「仕事」としての望み。
仕事とは「この世に何を残してゆくか」ということだ、とも言える。
わたしは、宗教学者として、そして表現者として生きてきた。
本質を捉え、最も深く鮮烈に生を営むための、そして他者と理解しあい愛し合うための、思索と洞察の力。
そして、子どものように純粋で自由なファンタジーと神話を遊ぶ、直観と表現の力。
そのふたつは、どちらも「知」なのだと思う。
一方は、世界で最も古い知性、叡智なるもの。
他方は、世界をつねに新しく生まれさせ続ける、創造の力。
最も古きものと、
つねに新しきもの、
太古の老人と、
生まれたばかりの子ども。
その交錯に、ほんものの知性があると感じる。
人が自分を、そして他者を、そして自らが住まう世界を、知り、理解し、人生を最大に生き尽くすための知性が。
ちょうど、禅のマスターが、最も深い奥義を極め、叡智に辿り着いたときに、まるで無垢なる子どものようになるように。
それはただの「子どもがえり」ではない。
山に降った雨の水が、長い時間をかけて、土を、石を、岩を、泥を、微生物を、植物を、動物を、排泄物を経由して、見た目は同じ透明な水でも豊かな養分と甘みに満ちたミネラルウォーターになるように、無邪気で透明なるものの内に、古きものの豊かさがなみなみと湛えられている。
わたしにとって、宗教学と芸術は、そのような関係性にある。
ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』において、ファンタージェンの最奥部には、心と魂の世界と、外なる肉体と行動の世界を繋ぐポータルとなる「生命の泉」が存在する。
そこは、魂の源泉でもあるのだと思う。
魂がこの世で果たすことを望む、最も深い「望み」がある、人間の最奥部。
学問としては、「魂の実在」を科学的に証明することは、(少なくともわたしには)できない。
でも、魂を考慮に入れずに、人間を考えることは断じてできないのだとも、強く思う。
AIと人間の違いは、「魂があるかないか」だと、わたしは思っている。
AIは、まっさらな無からできている。そこに、膨大なデータと、そのデータを処理するためのシステムが入力されることで、はじめて機能する。
でも人間は違う。
まっさらで生まれたようでいて、その無垢なまっさらは、たんなる無ではない。
生まれながらに、愛し、愛を求め、あたたかさに安らぎ、喜びに向かい、人との繋がりに向かい、より善き何かに向かう、はっきりとしたベクトルを内在させている。
そのベクトルが生まれる場所が「魂」なのだと、わたしは思っている。
魂とは、望みの源泉だ。
そしてその源泉からは、自分を愛すること、人と共にあること、世界をことほぐことへと向かう、「望み」が溢れ出している。
もし学問が、証明できるものにしか実在性を認められないならば、それは、世界をよく見ていないということになる。
虚心坦懐に、子どものまっさらな目をもって見れば、世界はもっとずっとたくさんのものに作用されてできているということが見えるはずだ。
わたしが福岡伸一氏をとても信頼できる学者だと思うのは、科学者でありながら、生命そのものの大いなる力を見てとり、そこに跪くことができるからだ。
『生物と無生物のあいだ』のラストに鳴り響く、科学の手をどこまでもすり抜ける生命の神秘に目を見張り、センス・オブ・ワンダーにただひらかれ佇むあの余韻こそ、本来の、学者の誠実な姿なのだと思う。
目には見えないけれど、人を、目に見えるすべてを、最も奥から養うもの。
それに目を、心を、存在を、ただ開きつづけること。
そこに、真の知性がある。
そこにおいて、理性はその手を感性と繋ぎ、その軸足を喜びへと下ろす。
だから、
学者として、表現者として、
それを繋ぐ「ほんものの知性」を渡しながら、
誰かを、あなたを、魂の望みの泉へと連れてゆきたい。
それが、わたしの仕事なのだと、思っている。
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