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“せんそう”と“へいわ”についての考察

“あたりまえの日常”は無いことに気づいた日


わたしたちの住んでいる世界が
安心できる場所だけでは無いことを知る

政府同士の利潤のやり取りで

私たちの世界が脆く壊れることを知る

今の平和ぼけと言われる安全な日本は
戦争を経験した人々が
理想を抱いて想像して
守ってきた世界だと知る

私たちを不穏な世界から守るために
平和ぼけ出来るくらい
未来の命も大切にしてくれていたのだ

身近な生活と世界

物資の調達には
前提として働く人の生活を整える必要がある
なぜなら端的に言えば質が下がるから

衣食住
好きなファッション、香水、音楽、娯楽が好きに選択できるのはそれを作る人々、それらを開発する環境が保障されているから。好きなものを選択するわたしたちに選択していいよ、と人権が保証されているから。

それが無くなったら?例えば工場がなくなる、デザイナーや調香師がいなくなる、その人自身が生きられなくなる、そういった要因で。
香水の原料となる花や香料を作る人や
機械を設計し、稼働させる人、洋服の材料となる綿や麻を栽培し、育てる人。
その土地すら奪われてしまった時はどうなってしまう?
そこに関わる国や人種は様々で、わたしたちの生活と密接に結びついている。会ったことはないけれど、大切な人はどこにでもいるのだ。

例えば:天然香料の場合、同じ植物でも土地の状況で香りが全く変わる。お気に入りの香水が廃盤になる原因は紛争や政治の不安定さに由来することも多い。
機械などの様々な原料なども、手に入られられない状況になれば、作れもしない。

表面的な人種への嫌悪感は、誰かの思惑による刷り込みに過ぎない。
その嫌悪感は強くても、なぜ?と分析し始めると自分自身の経験の中に根拠が見つからない事が多い。

ひとりで生きていても、誰とも関わらない事は出来ない、生活の全ては誰かの生活の作業の結果によって循環し、保たれている。

誰かを敵視して緊張した関係、単略的に破壊する事は、猜疑心を生み出し、不安を増長させ、自身の精神を蝕む行為だ。

人は簡単に諦めて、嫌いになれるから、
その反対をすれば良いのかも知れない。

何をすればいいのかなんて一言では表せないし、分からないけれど。

相手は敵では全くなく、同じように苦しみ悲しむ人間であり、知りもしないのに嫌う事はただ空虚なだけで、本質を見逃してしまう。
理解する時間さえあれば、大切な存在になるかも知れない、特別な隣人なのだ。

おかしな状況さえなければ、“おはよう”と笑顔で声をかけあって、またそれぞれの生活に戻れるような身近な相手なのだ、と思う。

理解し合えない違いは、あって良いのだお互いに。
それに、それは悪ではないのだ。

“傷つけられて良い人”なんているのだろうか

「人を傷つけてはいけません」
自分自身が誰かに傷つけられるのは嫌だけど、知らない会ったこともない他人で悪者っぽい人なら、傷ついても良いのだろうか?
殺人は罪だけど、戦争は虐殺なのになぜ罪にならないのだろうか。

自分が安心して生きたいと思ったら、まずまわりが安全でないと叶わない。自分を取り囲む周りの人も安心出来れば、誰も羨まず、誰も奪わない。

取り止めもなくなってしまったけど。
言いたいことは“世界には大切な存在しかいない”と思っている事。古来から続いてきた争いの連鎖が不毛過ぎて不要で、選択肢なんていくらでもある現代のはずなのに、理論的に言葉で理解し合うどころか、単略的に非生産的に争うことを選択するトップの方々に呆れ返っているという事。
あなたたちだけの世界じゃないのに、と。

声をあげられる今、きもちを外に出すこと

今の政治はいろんな声を無視してる
でも
まだ今は声を上げられる場所がある

怖い事に加担しないで
どんな人も傷つけないで

大ききな声で伝えたい。
何も出来なくても思い描けば、少しだけ、少しづつ、気づけばすっかり、良い方向に世界は必ず変わっていく。

(拙い文章ですが、思いを言葉にしてみました。ここまで読んでくださった方、とても嬉しいです。ありがとうございます!)

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