弐萬圓堂

やばみ/ 名前がコロコロ変わる気がします

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やばみ/ 名前がコロコロ変わる気がします

最近の記事

読谷山怪文書3

川床の灯りが鴨川の水面にきらめくのを見るたびに、私がいま京都という街に住んでいるという事実が嘘みたいに思える。4年経っても、だ。 雪国から京都の大学に出てきて4年目の夏のことだ。8月も終わるというのに就活がうまくいってなかった。今日もうまくいったんだかなんだか分からない面接を終えて京都駅から帰るところだ。 こういうよくわからない気持ちのとき、私は鴨川の脇を通ることにしている。四条から川床を眺め、観光客の流れに逆らい、北へ向かう。何でもない日を何か特別なように思わせて

    • 記憶の形をしたなにか

       大学2年の春休み、僕の住む京都でのことだ。  高校の同級生の瀬戸さんに木屋町に連行され飲酒に付き合わされた。彼女がバイトして買ったライカの自慢をすれば僕はベンジーのレコードの話をするようなドッジボール的会話をする関係性が楽しくて、アルコールが入れば一層加速して何軒もハシゴした。僕が帰ろうとしてもうるせえと彼女に一蹴されたが、ついに最後の一軒で追い出された。  時間も分からないが少なくとも日付は越えたような頃に先斗町を行くと川を望む小さな公園が見えた。  「おおー。風流」

      • 年イチの恒例行事

         文学部文学科表象文化論講座という学内屈指の何やってるかわからんエリアに自ら足を踏み入れ、勉強自体はそこそこ楽しいものの相性の悪い教授とのディスカッションに胃を痛め、就活で全くツブシが効かないと嘆きながらも、大学院に行ってまで学び続ける気力もなく、しかも半年前にフられたことがわずかに尾を引いていた頃のこと、電池の切れかかったような学生生活を過ごしていた3年の夏のことであった。  どうにもならない気分だったので遅くから行きつけの居酒屋で飲んでいた。特になにか嫌なことがあったわ

        • 黛灰の存立について

          (1年以上noteに投稿してなかったじゃん)  あまり整然とした文章を書ける気がしないのだけど今日だけは今すぐ書かなければいけない気がする。  黛灰が活動を終了した。  異能派集団のにじさんじの中にあってなお彼は特異点的であった。気だるげで知的で思慮深く、しかし妙な悪ノリも持ち合わせていた。夜な夜な変なゲームをやっていた。ただ、黛灰を知るうえで最も重要な点は、彼が自身の活動を物語と位置づけていたことであろう。  彼は出雲霞や鈴木勝ら他のライバーを組み込んで物語を構築しな

        読谷山怪文書3

          バーチャルシンガー花譜にみるリアルとバーチャルのゆらぎ

          (この文章は2019年夏ごろに書かれたものですが、改稿等をせずにそのまま掲載しております)  花譜は2018年10月より活動を開始したバーチャルシンガーである。デビュー当時は14才で現在は15才である。何かしらの生き物を模したフードの衣装が印象的な少女である。活動のメインは歌であり、いわゆる“歌ってみた”動画やオリジナル曲の歌唱動画を投稿している。ややハスキーで儚げな声だが、消え入りそうな声もパワーを持つ声も歌い分ける高い歌唱力と表現力で人気を得ている。また、定期的に投稿さ

          バーチャルシンガー花譜にみるリアルとバーチャルのゆらぎ

          読谷山怪文書

          高校生のころの僕は名ばかりの美術部員で、誰も来ない美術準備室に入り浸っていた。ひとりでいる方が好きで人と話すのも苦手だった。だから放課や授業後にはそこで本を読んだり音楽を聞いたり課題をしたりしていた。8帖くらいの少し埃っぽい部屋だったからわざわざ来るものなどいない。だからこそ僕だけの秘密基地となっていた。  彼女と出会ったのは高校2年の4月、まだクラス替えが終わったばかりで学校中がなんとなくそわそわしていたころだ。いつものように美術準備室に向かうとすでに鍵が開いていた。こんな

          読谷山怪文書

          花譜という歌手はやばいという話

          花譜はバーチャルシンガーである。日本のどこかにいる17歳の少女だ。 3年前のある日、彗星のごとく現れて私の心をつかんでいった。 一番最初に投稿された歌の動画がこれである。当時14歳にしてすでに完成されている。個人的には、本当に人生を変えうる音楽を初めて聴いた時には即座に受け入れるというよりは戸惑いを覚えるのだけど、花譜はまさにそうだった。簡単に言うと衝撃を受けるということだった。 独特なハスキーな歌声も、今にも泣きだしそうな声の震えも、鋭い高音も、すべて自分のものとして音

          花譜という歌手はやばいという話

          《IzumoKasumi Project》終了に寄せて

          出雲霞はにじさんじ所属のバーチャルライバーである。かねてから配信の中で物語を展繰り広げるという独特な活動を展開していた。時にはほかのライバーや視聴者を巻き込んで物語を展開していく様は圧巻であり、ある意味でバーチャルとリアルの境界をあいまいにしていく存在だったように思う。その出雲霞が10月13日の誕生日配信の場でにじさんじを卒業しライバー活動をやめると発表した。これはVtuberの歴史の中でも大きな意味を持つと思う。出雲霞が出雲霞であるままに終わらせたいと彼女自身が語ったからだ

          《IzumoKasumi Project》終了に寄せて

          夏の定義

           私が北緯43度の街に移ってから4度目の夏をむかえようとしている。6月になってようやく「暖かい」という皮膚感覚を得るような街にも着実に夏はやってくる。故郷とは大きくズレた季節の進みの中にも私は確実に夏を見出していった。 暑いと思い窓を開けてみるて、夜風が「涼しい」と感じたとき キンキンに冷やしたレモンサワーがたまらなく美味しいとき 道を歩くとどこからともなく青くさい匂いが漂うとき 自転車で風を切るときに、ぬるい風の中にも涼やかな部分を感じるとき 出先でシャツが1枚多

          夏の定義

          自分が好きになった音楽について振り返ってみる回

           唐突だがそろそろ自身の音楽遍歴について振り返り、記録にする必要があると感じた。根拠はないがそういうときが来ている。そんなわけで、現在進行形でデジタルタトゥーを残している自分がnote上にこれまで聞いてきた音楽について、まとめていくことになった。 ①幼少のころ  物心ついたころのことはあまり覚えていないながらも、断片的かつおぼろげな記憶をたどっていくと、音楽に関する記憶はほぼひとつ。すなわち、両親がドライブ中に流していたソウルミュージックのヒット集である。some&dave

          自分が好きになった音楽について振り返ってみる回

          朝について(?)

          徹夜明けボロボロの脳と心臓で迎えた朝日世界はきれい 14時に布団に潜る36時間ぶりの睡眠このままじゃ死ぬ

          朝について(?)

          本当に好きな音楽とは運命的な出会いを果たせると思うんだ

           最初の出会いはよく覚えている。中学1年の時だった。  そのころ、人並みに音楽に興味を持つようになってウォークマンを買ってもらった僕は、寝る前にラジオをよく聞くようになっていた。大体いつも聞く番組はNHK-FMのラジオドラマシリーズの青春アドベンチャーだった。オンエアは9時ぐらいだったので少し前からラジオをかけ始める。前番組は音楽番組だった。  その番組の、タイトルは忘れたのだけれど、その時期にエンディングにかかる曲が毛皮のマリーズのバンドワゴンだった。ラジオを聞き始め

          本当に好きな音楽とは運命的な出会いを果たせると思うんだ

          夜更かしについて

           夜更かしをしがちな人生を歩んでいる。  なんてことはない。好きな音楽を聞いたりアニメを見たりゲームをしたり、真面目にもレポートを書いたり。時計を見ると2時を過ぎていることはザラである。  仕方がないことである。子供のころからふさわしく育てられた私は世間の平均的な親がそうするように両親から「夜更かしはよくない」「早く寝なさい」と言い聞かされた。テレビを見ても本を読んでも、早寝早起きがいかに健康的で夜更かしがどれほど人体と精神とに悪影響を及ぼし人を廃人たらしめるか、というこ

          夜更かしについて

          ヘ長調の緑と嬰ヘ長調の緑は違うというはなし

           私の故郷は間違いなく田舎に属するだろう。  周囲を山で囲まれ実家の部屋の窓からは柿畑を見下ろし徒歩5分で水田の広がる文字通り田園風景の広がるような緑にあふれたところだ。  こういうのどかなところに住んだことのある人ならわかると思うのだけれど、山並みや田畑は季節の流れに合わせて装いを変える。五月のキラキラと輝く新緑、真夏の濃すぎるくらい濃密な繁茂、やがて風の涼しくなるにしたがい赤や黄色に色づいた葉は間もなく散り冬を迎える。どの季節にも意味のある時間が流れる。  なかでも五

          ヘ長調の緑と嬰ヘ長調の緑は違うというはなし

          牧場の朝を3個一気に食べるのは子供のころからの夢であり大人ができる小さな贅沢

          男もすなる日記といふものを 女もしてみむとてするなり  というわけでもないが、思うようにやりたいことのできない日々が続き精神が道頓堀川なみに淀みつつある。何かしないではいられない。なのでこうしてnoteなるものを始めてみることにした。  基本的に何か書きたいこと伝えたいこと壮大なる思索の成果あるいは啓蒙哲学人生論の類があるわけでは断じてない。これはおそらくその日その時に思いついたことを適当に書き連ねていく程度のものである。ある種の日記であり、好きなもの嫌いなものへの感想文

          牧場の朝を3個一気に食べるのは子供のころからの夢であり大人ができる小さな贅沢