バーチャルシンガー花譜にみるリアルとバーチャルのゆらぎ

(この文章は2019年夏ごろに書かれたものですが、改稿等をせずにそのまま掲載しております)

 花譜は2018年10月より活動を開始したバーチャルシンガーである。デビュー当時は14才で現在は15才である。何かしらの生き物を模したフードの衣装が印象的な少女である。活動のメインは歌であり、いわゆる“歌ってみた”動画やオリジナル曲の歌唱動画を投稿している。ややハスキーで儚げな声だが、消え入りそうな声もパワーを持つ声も歌い分ける高い歌唱力と表現力で人気を得ている。また、定期的に投稿される写真や動画では実写の背景と3Dのグラフィックが融合しており独特の世界観を展開している。現時点ではオリジナル曲「心臓と絡繰」は動画再生数が200万回以上を達成し、先日行われた初のワンマンライブでは専用ハッシュタグがTwitterにてトレンド1位になるというムーブメントを見せた。
 本文章では他の音楽系VTuberとは一線を画す活動をする花譜について複数の観点から分析、考察を加えて、花譜の独自の世界観や存在感の成立要因を明らかにしたい。

なお、本文章においてバーチャルYouTuberという用語についてはWikipediaによると以下の説明をもって基本的な了解とする。

バーチャルYouTuber(バーチャルユーチューバー、英:Virtual YouTuber)は、YouTuberとして動画配信・投稿を行うコンピュータグラフィックスのキャラクター(アバター)、またキャラクター(アバター)を用いて動画投稿・配信を行う人。別名:VTuber、Vチューバー(ブイチューバー)。

・映像/画像

 花譜の投稿する写真や映像において特徴的な点は実写の背景にバーチャルな肉体を持つ(つまり3Dグラフィックの)花譜が映っている点である。ほかのVtuberは基本的に肉体同様3Dグラフィックによって作られた、要するにCGの背景の中で活動し、写真や動画もそれに準ずる。しかし花譜の場合、ある時は新宿の歩道橋、ある時は渋谷の交差点、またある時は名前もわからない公園を背景にしている。そして、バーチャルなアバターが実写を背景とした画像や映像を作る場合、不自然にならぬようにCGと実写を合成しなけらばならないのだが、花譜の場合地面に延びる影や花譜にあたる光の具合の調整などが繊細になされているので、ほとんど違和感のないレベルで背景に溶け込んでいる。動画の場合も花譜の動きに合わせて影も光も動いていくため花譜が本当に東京の街を歩いているようである。


 この実写と見事に融合した画像・映像によって花譜は独特の世界観と存在感を作り出すことに成功している。通常、Vtuberとはあくまでバーチャルな存在であるためバーチャルの世界、簡単に言ってしまえば画面の中にしか存在し得ない。そのため基本的に現実世界との接触は画面を介して行われることになる。例えばキズナアイは「白い空間」という白い床が延々と続く空間から出られないということになっているため、テレビ番組のニュースゼロに出演した際にはスタジオ設置されたモニターに映る形での出演となった。
しかし、花譜の場合ははじめから実写を背景とした画像や映像を投稿することで直接現実世界と接点を持っているような印象を与えることに成功しているといえる。そのためバーチャルな存在であるはずの花譜がこの世界のどこかにいる(かもしれない)という他のVtuberにはない感覚を見るものに与えるのである。


 では花譜の画像についてもう少し詳しく観察してみよう。まず気になる点が色彩感と光である。花譜がTwitterやinstagramに投稿する画像の多くは色味や差し込む光がおおむね淡いものであり、画像からその場の空気が見えるようである。
 撮影場所についても見てみると、いわゆる景色のいい場所や名所、あるいはインスタ映えするような場所ではなく、夜の東京の落書きだらけの高架下やゴミの落ちている繁華街、人気のないゲームセンターなど14才の少女には似つかわしくない退廃的な都市の風景であったり、淡い光に包まれた郊外の公園や道やバス停、住宅地など、どこだかわからないが何となくわかる、知っている気がする場所にいるのだ。そのため実在感という意味ではかなり花譜の存在がリアルなものとなってくる。
 そして、そのような何となく知っている場所や必ずしもキレイではない世界に溶け込む少女はピンク色の髪をして触角のようなものを持つ生物のようなフードをかぶり、アーチェリーの的のような吸い込まれそうな瞳を持っていて、いくぶん現実離れした姿をしている。そのようなある種の神秘性を帯びた美しいバーチャルな存在がどこにでもあるような場所、もっと言うとゴミや落書きで汚れた極めて「現実」を想起させるような場所にいるというアンバランスさが絶妙な「エモ」さを生んでいる。
 さらに、(画像や映像そのものの分析からそれるのだが)投稿する画像に添えられる短文についても見てみよう。花譜がTwitterやinstagramに投稿する画像には基本的に意味深でポエティックな短文が添えられている。これは花譜そのもののバーチャルとしての存在感と花譜がいる場所とのミスマッチ感と相まって独特の「エモ」さを作り出すことに影響している。具体的にいくつか抜き出しみよう。

①世界の終わりに君をまってる。2018年10月24日
②だれかにあいたくて、途方にくれる。2018年11月1日
③君につたえなきゃいけないことがあるんだ 。· 2018年11月7日
④君は元気にしているのかな。· 2018年11月29日
⑤思うように信じたものを選ぼう。2018年12月19日
⑥想いは決まっていたんだ。2018年12月22日
⑦何もないあたしでも、 何があっても変わらないよ。· 2019年1月8日
⑧白む空さえ拒みたい。2019年1月17日
⑨道しるべはここだったのか。 2019年1月28日
⑩崩れ合う言い訳で混ざっていくんだ。· 2019年1月30日
⑪いまあなたとの物語をえがきたいよ。2019年3月26日
⑫咲かないように閉じた花を、ずっとみてた。2019年4月4日
⑬過去最大に夏が待ち遠しいよ。· 2019年4月22日
⑭今年もまた春が訪れたのだね。2019年4月24日

 このように時系列を追って短文を読むと花譜の物語が見えてくる。
 ①~④の短文は活動初期のものである。投稿された画像はほとんど夜の東京の汚い部分も映した景色を背景にしている。夜の都市の退廃とした雰囲気のある画像に添えられる文章は孤独や閉塞感を感じさせる、どこか世を儚むようなものである。
 ⑤、⑥や⑨、⑩はオリジナル曲の歌詞を発表前に断片的に添えたものである。
 映像的に大きく変化したといえるのは⑧であろう。この文章が添えられた画像は雪の積もる湖畔に花譜が立つというもので、それまでは基本的に夜の中に溶け込んでいた花譜が日の当たる場所にいる。一気に光があふれたような印象であり、花譜が新たな局面に至ったような印象を与える。
 ⑪は受験による活動休止から復帰してすぐの投稿に添えられたものだ。ファンと共に歩む新たなるスタートを印象付ける文章である。
 ⑫~⑭はさらに季節感や時間の進みを印象付ける文章である。花譜という物語がさらに時間的に進みゆき私たちリアルに生きるものと同様の時を歩んでいくということを表すようだ。

・音楽


バーチャルシンガーを名乗る花譜の活動のメインはカバー曲やオリジナル曲を歌う動画の投稿である。花譜の音楽の特徴は花譜の歌唱そのものと選曲の大きく2点に分けて考えられる。

 まず、花譜の歌唱技術についてみてみよう。これは個人的な感想になるのだが、初めて彼女の歌を聞いた印象は「上手い」というよりかなり独特な歌い方だなあということだ。平たく言うと技術というよりもかなり手癖で歌っている印象がある。「手癖」の具体的な内容としては意図せぬ声の震え、あいまいな発音、フラットする音程、声のかすれ、ブレスのあつかいなどがあげられる。
 具体的に楽曲を見てみよう。例えば花譜が最初に投稿した歌ってみた動画がボカロPの一二三による「猛独が襲う」である。第一弾の動画から圧倒的な表現力をいかんなく発揮したわけだが、特に印象に残るのは最後のクライマックスの「猛独が襲う」という歌詞では非常にパワフルかつ切実な声でうたうのだが、猛独の「も」でおそらく意図しない声の震えが生じ切実さを一層かき立てる。
 risou (ちんまりP)による「またねがあれば」はいわゆる失恋ソングであるが当時14才とは思えないほど表情豊かに歌いこなしている。この曲でまず気づくのがカ行の弱さである。カ行のk子音の発音がおそらく下の力が弱いためにガ行のように聞こえる。そして結果としていくぶん舌っ足らずに聞こえるのだ。そして、この曲で特に注目したいのが所々音程がフラットする(下がる)点である。歌詞でいうとサビの後の「さいあく泣き落そうと考えた」の「が」の部分が想定される音程より半音低く、いわゆるブルーノートになっている。ブルーノートは歌手によっては自然と出てくる癖のようなもので、いわゆるブルースに使われる音階なのでこれを使うとブルーな感じやダウナーな感じになる。どのような音楽経歴があるのかわからないが、花譜はこれを極めて自然に(わざとらしくなく)歌唱に取り入れられるのだ。
 表現という点に注目すれば崎山蒼志の「五月雨」のカバーが圧巻である。この曲で花譜は明らかに表現とか感情という点に重きを置いて歌っているのだが、言葉を言葉と認識できるギリギリのところまで崩したような歌となっている。そして、歌うというより語ったり吐き捨てたりするような表現のために音程というものがほとんど失われている歌詞もある。「泪のあとから 悪い言葉で震える」の「震える」では歌うことをやめて本当に震えているような言葉を吐き出し聞いているこちらがぞっとするようである。このような表現はこの「五月雨」を作った崎山蒼志の歌い方にかなり影響されたものではあるが、それでも花譜自身にメロディーや言葉を崩すことによる表現力があることを如実に表している。
 そして、様々な歌唱スキルが合わさって花譜はカバー曲であっても完全に自分のモノにしてしまう。米津玄師の「Lemon」のカバーについては圧倒的な知名度を誇る曲でありながら花譜が歌う「Lemon」として歌い上げている。これまでに述べた声の震えや子音のあつかいに加え、リズムの重点の置き方が米津のそれとは異なっていながら違和感なく音楽が入ってくる。
 一方で声そのものに注目すると花譜の声は年齢相応に(もしかしたらそれ以上に)幼いのである。
 先述の「Lemon」の場合、転調後の「自分が思うより」のくだりはそれまでの歌いっぷりからすると驚くほどか細く幼い声となっている。しかし、幼さが残ものだが歌詞の表す痛みを切々と感じられる声と表現をこなしている。花譜は自分の持つ声で成立する表現を確実にこなしてしまうことができるのだ。
 付け加えると花譜は表現力に関する技術だけでなく基本的な歌唱技術もかなり高い。音程が時折フラットしたりメロディーが崩れることもあると述べたが、基本的に正しい音程が歌えるうえでそうなっているのであり、ここぞという高音はきっちりと正しく歌える。花譜が歌った最も高い音は「想像フォレスト」や「回る空うさぎ」に現れるhihiB♭であるが問題なく歌いきっている。花譜の表現力は基礎的な歌唱技術に支えられて成立しているといえる。

   もう一つ花譜の音楽を考える上で重要なものが選曲である。
 基本的に花譜が歌う曲は花譜本人が自分の好きな歌として選曲しており、リクエストは受け付けない方針をとっている。つまり花譜の歌う曲をみると花譜の音楽的志向が見えてくるのである。
はじめは“歌ってみた”、つまり既存曲のカバーからスタートしたわけだが、選曲の多くはインターネット上に投稿されたボーカロイドの楽曲(いわゆるボカロ曲)である。この点はやはり花譜の存在やプロジェクトがインターネットを基盤にしていることによるものではないだろうか。加えて、花譜の持つ世界観もいくらかはボーカロイドのカルチャーの延長として成立している部分があることを示しているのだろう。
 肝心の曲の内容なのだが、活動初期から失恋や生きることのつらさを歌った厭世的な雰囲気の選曲が多かった。およそ14才のチョイスとは思えないが、むしろ若者の生きづらさを表現した歌であるから花譜はそれらの曲を歌ったのだろう(「死んでしまったのだろうか」、「凍えてしまいそうだ」など)。とくにそれらのキツめの歌詞を持つ曲はボカロ曲に多い。一方で「少女レイ」や「想像フォレスト」などボカロ曲特有の世界観の強い曲も演奏しており、花譜のボーカロイド界への造詣の深さがうかがえる。
 一方でだんだんとボカロ曲以外の曲も歌うようになってきた。そしてそれらの曲はかなり幅が広く、アニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌となった「ハミングがきこえる」や、神聖かまってちゃんの「フロントメモリー」のようなロック曲や、東京ゲゲゲイの「ダンスは僕の恋人」のようなダンスミュージックの要素を含んだ曲など実にさまざまである。
 
 オリジナル曲については一貫してカンザキイオリが作詞作曲を務めている。カンザキの作る曲は代表作「命に嫌われている」に見られるような生きづらさや閉塞感、苦悩などについて詞を作り、音楽はロック風やバラードなど多種多様である。特に歌詞のメッセージ性から非常に“突き刺さる”曲が多い。といえる。
 カンザキが花譜のために作った曲も厭世的とまではいわないが、やはりうまくいかない人生とか別れとか若さゆえの迷いなどを扱った“刺さる”タイプの詞、曲が多い。そのような曲が花譜の高い表現力をもって歌われるのだが、花譜の物語という点で見るとカンザキによるオリジナル曲は花譜の転機やその時の状況にふさわしい曲が発表される。
 例えば受験による活動休止に入る前に発表した曲「忘れてしまえ」はまさにこれから会えなくなる人のことを歌った別れの歌であり、活動休止にはいる花譜が本当に遠くへ行ってしまうような感覚をもたらした。あるいはクラウドファンディングの成果物として作られた「そして花になる」は花譜のすべてが詰め込まれた曲として位置づけられており、15才の少女が人生に迷い、それでも歌が好きで歌を歌っていくことを強く歌い上げる。その歌詞は間違いなく実在する少女としての花譜の人生のそのものを表したものである。

 花譜は様々なジャンルの曲を歌うことができるが、おおむねハッピーなだけの曲は歌うことなく、人生の苦悩や葛藤、別れのつらさなど誰もが経験する痛みを扱った歌が特に多い。そのような選曲は画像や映像との関連を考えた時に、実在感の高い都市的な光景と結びついて一層切実さが高まる。言い換えれば「エモ」を作り出すのである。

・プロデュース方針


 他のVtuberと比較したときに花譜のもう一つの大きな特徴は花譜という人格のつくり方や見せ方にある。そしてこれは、いわゆるVtuberの“魂”の扱い方と大きくかかわっている。
 この議論を進めるためにはまずVtuberの“魂”について簡単に整理しなければならない。Vtuberとはある役者がある人物を演じるという形のアニメの登場人物とは違って基本的にそれ自体で独立した人格であると考えられる。つまりVtuberには”中の人“は存在しておらず、Vtuber自らの意思で動画を製作・投稿しているということである。
 しかし、ファンとして楽しむだけならそれで問題はないのだがそれ相応の分析をしようとすると突っ込んだ(メタ的な)議論が必要である。つまり、アバターを操作し、そのVtuberになり切って声を当てる(要するに演じる)アクターがいる前提に立たなければVtuberの生配信などの活動におけるアクターの立ち位置について論ずることができない。このVtuberを演じるアクターのことをファンなどは“魂”と呼ぶ。
 これまでのVtuberの“魂”のあり方は大きく2種類あった。まずVtuberとしての設定やキャラを徹底して守りアクターの要素を決して表に出さない、アニメのキャラクターに近いあり方である。しかし、よく考えてみればあるVtuber(という人格)として世に現れた以上はアクターの要素が表に出ないなど当然のことである。実際多くのVtuberはデビューに際して設定を順守した行動を見せる。そして継続的にキャラを順守するタイプのVtuberはキズナアイやミライアカリなど動画投稿中心のVtuberに多い。
 もう一つのあり方はアクターの要素が出てきてしまうタイプである。これは本来設定やキャラによってアクターの行動が規定されるはずが逆にアクターの言動がVtuberのあり方を変えてしまう、Vtuberの設定を侵食するということである。例えば月ノ美兎は配信中に「雑草をよく食べていた」という本来の月ノ美兎の“設定”を無視したアクター側のエピソードを語りだしたがために、Vtuber月ノ美兎にまで雑草のイメージが定着した事例がある。このような傾向はしゃべっている間に「ぼろが出やすい」生配信を頻繫に行うVtuberに多い。

 では花譜の場合はどうか。まず活動開始の頃は花譜はほとんど話をしておらず、独特の世界観を持つ写真と、その世界観にふさわしい歌の歌唱動画の投稿によって花譜独自のイメージないしは世界観を作り上げていった。この段階では高い歌唱力を持ちながらミステリアスなバーチャルシンガーといったイメージが強い。
 しかし、時折投稿された花譜が自分のことを語る動画では、まだあどけなさの残る声で好きなことや将来のことを語っており、等身大の14才の少女の気持ちがそこでは語られていた。話し方からして台本などは特になくアクターが素直な心象を語っているのだろう。その後も花譜が何かしらの話をする動画がいくつか投稿されるがそのどれもがやはり台本の存在を感じさせない素の少女の語りである。
 つまり、花譜という世界観は投稿される画像や動画によって強固に形成される一方、花譜の人格についてはアクターが何かを演じることなく素直に振舞うため、アクターの言動や性格がそのまま花譜の人格になっていくのである。これは先述したアクターが設定を順守してVtuberを演じ切るあり方とも、アクターがVtuber本来の設定を侵食していくあり方とも違うあり方である。
そのことを最も象徴する出来事の一つが2019年2月にアナウンスされた受験に伴う活動休止である。中学3年生の15才であった花譜が高校受験のために一時的に活動休止をすることを発表したのだが、まず重要な論点の一つとしてアクターの事情がそのままVtuberの活動に反映されている点があげられる。これはある意味ではアクターの言動がVtuberのあり方に影響している例である。しかし、花譜特有の論点として次のように考えられる。アクターのふるまいをそのまま人格として取り込む方針をとる花譜の場合は、受験による活動休止さえも”休詩“と名付けて休止前に別れを想起させるオリジナル曲を発表して、受験による活動休止さえも花譜の物語に取り込んでしまったのである。
そして、この独特のあり方は狙ってそうしたものではなく、花譜の事情が関与している。
ファーストワンマンライブの開催に先立って、花譜の運営が発表した声明では花譜のデビューに関する簡単な経緯のようなものが記されている。まずメタ的な話題として花譜の年齢は設定などではなく本当に15歳であるということ。そして、運営が花譜と出会ったときには彼女はまだ13才であり東京から離れた場所に住んでいるため本格的な音楽活動が難しく、花譜の両親も顔出しでの活動に難色を示したという。そこで運営が提示したのがバーチャルyoutuberというあり方であった。これなら東京から遠い場所に暮らす未成年であっても安全に音楽活動ができるということなのだ。
その結果として出来上がったものが、ひとりのバーチャルシンガーでありながら音楽、映像など様々なクリエイターが関与する総合的なプロジェクトとしての花譜である。そして、そのような経緯があるために花譜のプロジェクトの進め方というのは実在する一人の少女に合わせてアバターを製作し、世界観を構築し楽曲も製作したということになる。これは、姿や設定をあらかじめ構築してそれに合うアクターを用意するという通常のVtuberとは逆のプロセスを踏んでいるといえる。
花譜という一人の少女ありきでプロジェクトを進めてきたために、花譜というバーチャルシンガーは実在する普通の少女にバーチャルの肉体をかぶせただけの存在となった。これが他のVTuberにはない花譜の実在感やリアル感を生む最も大きな要因である。

 まとめると画像や映像あるいは歌唱によって強固な世界観を構築しながら、設定らしい設定が実は存在せずアクターの人格がそのまま花譜の人格となる在り方によって他のVtuberとは一線を画す独自の路線を築いてきたのである。その集大成といえるのが2019年8月1日に行われたファーストワンマンライブ不可解であろう。

・ライブ


花譜のファーストワンマンライブ不可解は2019年8月1日に恵比寿のライブハウスLIQUIDROOMで行われ、同時に全国各地の映画館でのライブビューイングとYouTubeでの配信が行われた。
 ここでは行われたのは単にスクリーンに映し出されたVTuberの映像が歌うというようなものではなく、高度な映像技術と音楽、そして花譜のアーティスト性が極めて有機的に結びついた今までにないパフォーマンスであった。
 基本的にバーチャルなものがライブなどのパフォーマンスを行う場合、多くの場合はスクリーンに映像を映すか透明なパネルを置いてそこに映像を投影する形をとる。花譜も基本的に透明なパネルに映像を映す形でステージに立った。注目すべきはステージには他に4人のバンドメンバーがいる点である。生身の人間と並ぶことでバーチャルな存在でありながらステージ上に「いる」という感覚が起こるのである。
 このライヴのパフォーマンスにおいて極めて印象的なのは歌詞のタイポグラフィがあちらこちらに飛び交う演出である。仕組みとしては透明なパネルをステージ上に二重三重に配置し、そこに文字を映すことで文字が立体的に動き、ライブハウスの空間に飛び交うというものである。この透明なパネルがバンドメンバーの前や後ろにも並び、文字が彼等の前や後ろに現れるため、より空間的に文字が見えるのである。

 セットリストは多数の新曲を含むもので、バラード、ロック、キュートなポップスなど様々なスタイルの曲が演奏され、花譜の音楽性の幅広さを示した。中でも個人的に注目したい曲は大森靖子の「死神」のカバーである。というのも、この曲はそれまで花譜が披露してきたどの曲よりもメロディーが崩れ「歌う」というより「語り」に近い部分があるのである。おそらくは普通に歌うよりも難しい語りに近い歌を切迫感を持って表現しきった力量にはかなり舌を巻いた。さらに今回のパフォーマンスではポエトリーリーディングも取り入れられており観客を花譜の世界観に引き込んで、歌にとどまらない言葉のパフォーマンス力の高さを示した。
 一方で曲間のMCについてはまったくMC慣れしていないことが分かる非常につたないものであった。語彙や話し方を見ても年齢相応といった印象を受ける。しかし、年齢相応のたどたどしいMCであるがゆえに花譜という存在が設定に基づいて作られた存在などではなく、実在する本当の少女であることを一層印象付けられるのである。
 
 ファーストワンマンライブ不可解では音楽によって花譜の世界観を存分に示した一方で、高度な映像技術による演出を用いることでバーチャルである強みを生かしながら現実世界での実在感を高め、飾らないMCによって少女の実在感が非常に印象付けられるものでもあった。そのため通常ライブにおいてはモニターに映る存在でしかありえないはずのバーチャルな存在でありながら異様なリアリティをもってステージ上に存在することができたのである。

・まとめ


 はじめは地方に住む未成年者を安全な形で世に出すためにバーチャルという手法をとることにした花譜であるが、そのために設定がなく、少女の言葉がそのまま花譜の言葉となる形でバーチャルシンガーが生まれ、世界観づくりにおいても実写の背景をベースに活動することでバーチャルな存在でありながら独特なリアリティ(実在感)を持つに至った。そして「実在感」の到達点の一つが様々な技術を駆使したファーストワンマンライブ不可解であり、そのステージにおいて花譜は現実世界に存在するに至った。
 重要な点ははじめから狙ってリアリティあるVTuberをプロデュースしようとしたというよりは、花譜の才能を世に出すためにバーチャルという手段をとり、最も面白いあり方を模索した結果としてリアリティを得る路線となった点である。
 バーチャルでありながらリアリティを持って存在する花譜のあり方は花譜自身の努力や才能はもちろんのこと、映像や音楽を手掛けるクリエイターや花譜の才能に可能性を感じ世に出すことに努めながら花譜自身を守ることも忘れない運営の熱意によって成り立っている。
 VTuberの流行が始まって2年が過ぎ、様々な形でバーチャルというコンテンツは急速な発展を遂げた。しかし、急速なVTuberの増加は同じようなことの焼き直しを生み結果としてかなりの飽和状態にあるといってよい。いくらバーチャルの肉体を得ても生身の人間と同じようなことをしていてはバーチャルである必然性はないのである。
 そのような状況にあって花譜はバーチャルでありながらリアリティを持つというある意味でバーチャルにしかなしえない方法でバーチャルというコンテンツ内で独特の存在感を示している。今後も頭打ちの状況が続くと思われるバーチャルというコンテンツにとって花譜のあり方は、コンテンツの面白さやバーチャルであることの意味において新たな指針を示し、バーチャルというあり方を問い直すだろう。
 今後も花譜のあり方の分析がバーチャルというコンテンツ全体の一時的な消費ではない、持続的でバーチャルにしかない面白さを追求する発展のために有効であることは間違いないだろう。


・追記

 この文章は2019年の夏ごろに書かれたものである。バーチャルを取り巻く事情も大きく様変わりしていて新たに検討を加える必要はあるが、当時の状況の記録という意味合いもあってあえてそのままの文章を投稿することにした。この文章が書かれてから2年ほどたったが、やはり花譜を含め神椿スタジオの躍進というのが想像以上のものであったことは自分も驚いている。今後もバーチャルというコンテンツにおいて彼女たちが果たす役割は大きいはずだ。




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