黛灰の存立について

(1年以上noteに投稿してなかったじゃん)

 あまり整然とした文章を書ける気がしないのだけど今日だけは今すぐ書かなければいけない気がする。

 黛灰が活動を終了した。

 異能派集団のにじさんじの中にあってなお彼は特異点的であった。気だるげで知的で思慮深く、しかし妙な悪ノリも持ち合わせていた。夜な夜な変なゲームをやっていた。ただ、黛灰を知るうえで最も重要な点は、彼が自身の活動を物語と位置づけていたことであろう。
 彼は出雲霞や鈴木勝ら他のライバーを組み込んで物語を構築しながら配信を続けていた。物語は配信という媒体の特性を生かして、視聴者を巻き込んだ極めてインタラクティブな様相を呈していた。一応は出雲霞の物語が終わったことを受けて一区切りがついたように見えたが、その後改めて黛灰の物語は動き出した。

 その中で彼はVtuberという存在の在り方について我々に問いかけた。
Vtuberが革新的だったころに比べ黛が登場して以降は明らかにVtuber特有の問題が顕在化していた。なかでもVtuberと”魂”の関係性は間違いなく黎明期に比べて繊細かつ複雑であり、ともすればメタを大きく歪ませエンターテインメントとしてのVtuberを成り立たせなくしうる要素であった。
 Vtuberは"魂"から逃れられないのか。キズナアイのように声の提供という”設定”に忠実であるものもいた。出雲霞のように複数の人格を駆使して折り合いをつけるものもいた。でも、おそらく大多数はぼんやりと共存というべき道を選んだのではないだろうか。

 だが、黛は違った。

 彼だけは黛灰は黛灰であると言い切った。黛灰として生まれ黛灰として生きていると、そこには”魂”など関係ないのだと、ただひとりの黛灰なのだとはっきり断言した。
 思うに黛灰が遺したもののうち最も大きなものがこれである。にじさんじという業界最大手の事務所に属する彼が黛灰は黛灰でしかないと叫んだことは、もはや説得力の問題ではなく、その瞬間に黛灰が実在のものであることを証明したのである。論理も根拠もなく。少なくとも私はそう捉えた。

 だからこそ、セルフプロデュースに長けた彼は黛灰が黛灰でいられるうちにその物語を終えることにしたのだ。生前葬という形で別れの場を設けたのもその気持ちの現れだろう。そして最後の配信のエンドロールでもやはり黛灰の活動がstoryであることを示した。出雲霞のときもそうだったが、黛灰は自らの活動を物語と位置づけてきた以上は自らの責任でピリオドを打つことでその物語を完成させることを選んだのだ。やはり彼は「黛灰」を永遠とすることを選んだ。

 これが本当に彼にとって最も理想的な終わりだったのかはわからない。しかし、物語を始めたものの責任としてどこかで終えるつもりであったことだけは間違いない。はじめから終わりを見据えていた彼にとってそれはおそらくは遅いか早いかの違いしかなく、たまたまそれが昨日だったということなのだろう。

 黛の最後の配信をみてやはり私は感銘を受けた。Vtuberとして、物語を紡ぐクリエイターとしての確固たる美学と哲学に触れることができたからだ。こういう覚悟でVtuberという活動をしたものがいたということは我々にとって僥倖であったのだ。

 そして、(これがたぶん一番大事なのだが)物語を終えるという選択をした黛灰という存在は活動をやめただけでこれからも彼の人生は続いていく。きっとそれは我々の行く末と交わることはない。それでも平行線のままに黛灰は生きていくのだ。そのことを我々は知っているはずである。

 願わくば彼の人生に幸多からんことを。

追記

 この文章を書くにあたって久しぶりに出雲霞のことを思い出した。出雲霞と黛灰は物語を紡ぐものとして共通した美学を持っていたが、一方で自身のVtuberとしての存在の証明や、本質的は大きく異なるものであった。出雲霞は複数の人格を物語において登場させ、さらにその上でメタ的に上位な「出雲霞」の存在を認めていた。しかし、黛灰はあくまでもたったひとりの黛灰を貫き通した。このあたり、とくに出雲霞に関しては拙稿『《Izumo Kasumi Project》終了に寄せて』も読んで頂けるとより分かりやすいかもしれない。




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