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哲学的エッセイ

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私の哲学入門

私の哲学入門

 普段生活をしていて、ふと、「なぜ」あるいは「これは何だろう」と思うことはないだろうか。

 友人と話していて、なぜここで笑うのか、どうしてそういう態度を取るのか。誰しもそんな疑問を感じることがあるだろう。それが哲学になる。哲学は日常生活の床下に潜んでいる。それは広くて、深い。難しい専門用語を並び立てる哲学も確かにある。だが、哲学はそれに限ったことではない。それは日常に寄り添っている。むしろ、専門

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志向性という着眼点

志向性という着眼点

 志向性の概念は、フッサールが創唱した現象学と密接に関わっている。ドイツで過ごしたフッサールという哲学者は1900年前後に活躍した現代思想の担い手の一人である。これは現象学の対概念ノエシス/ノエマ(作用/対象)と関連づけられる。志向性は心を考える上で大きなヒントになる。

 例えば、私がコップを持つ。これも志向性の性質が関わっている。コップという対象に<向かって>手を伸ばし、コップをつかむ。これが

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信じるということ

信じるということ

「思弁が終る、まさにそのところで信仰が始まる」(キルケゴール)

「信仰と懐疑とは、互に相応ずる。それは互に補いあう。懐疑のないところに、真の信仰はない」(ヘッセ)

 信じるとは何だろうか。
 ある対象に疑いがなくなったとき、信じることができる。果たしてそれは可能だろうか。逆に、当たり前なことを疑うから世界が広がることがある。デカルトは「我思う、故に我あり」と喝破した。自分の思うことは疑うことが

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愛について

愛について

 愛とは元氣づけることだと思う。自他共に対して。
 例えば、愛する人が風邪を引いたとする。そのとき自分の「愛の力」で抱きしめても風邪は治らない。やはり風邪薬で治す。ただ、治るまでに看病して身の回りの世話をし、元氣づけることはできる。それが愛と呼ばれるものではないか。困難に直面したときにその人の真価が問われる。そのときにその人の愛を確認することができる。

 一方で、自愛というものもある。自分をいた

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