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鉄塔がある街 (前編)

 決してこの街のシンボルとは成り得ぬ鉄塔。ベランダから眺める青々とした緑の巨魁に一つ佇む鉄塔は、それでも悠然とした姿で、私たちの生活や日々揺れ動く感情というものを捉え、今は夏の空に浮かぶ積乱雲に圧倒されながらもただ寂しく、ただ静かに、立っているばかり。


 昔からこの港街に住む漁師たちは、この鉄塔に『北方』という名をつけ、波が激しくうねる冬場漁に於ける街の目印として、皆大声でその愛称を叫んだ後、小型船の舵を取るのだった。

「おい、関ん所の小倅。北方を見て離すなや。無事港まで帰れたら、関一雄は立派な男やと、触れ回ってやるさかいな......」

「おじさん、そんな簡単に人は死なんて」

「戯言や......お前、海に取り込まれても、絶対に俺らは助けてやらんぞ」

 そんな活気の中、上下に揺れる船首から見た街並みはいつもよりどこか小さくあって、山系の中腹に聳える赤い鉄塔は、下界を統べるかの様に無機質、無感情、僅かな非情さを私に思わせたのである。
 記念すべき私の初漁は、まずまずの成果を収めた訳ではあるが、その後は自ら進んで海に出る事はなかった。我々、十四、五の青年が皆『おじさん』と呼び慕っていた小型船の船長。彼がその年最後の冬漁にて、荒れ狂う海にその身体を喰われたのも、一つの原因とも言える。

 遺体は浮かんでは来なかった。事故の翌日、街内会の数人が必死になって、深緑の海を竹棒で掻き混ぜる中、警察署から派遣された連中ときたら吐くのは溜息ばかり。役にもたたぬ陣頭指揮を取る振りなどして、たかが漁師一人の為に力を奮う事を、まるで恥じ入るかのごとく。
 葬儀の夜、奥さんの背中に隠れる様にして立つ女の子を見かけた。歳は私よりも三つほど下で、その整った顔立ちは、無骨な漁師の血を感じさせぬほどに優美な曲線を引いて、小さな顔から繋がる、細い顎を際立たせていた。

「母ちゃん。あんな子、僕は見た事ないなぁ」

「そらあんた、まだ小学生の娘やさかい......。辛い事よなぁ、残酷な事よなぁ......。あんたはな、もう海なんて出んとき。お父ちゃんみたいに勉強して、学校の先生にでもなったらええ」

「でも友達は皆、父さんの事を色白、色白って馬鹿にするんや。僕には直接言ってこんけど、隠れて言ってるのを知ってるんや」

「父ちゃんは色白かもしれんけど、海で死ぬ事はないわ。それが一番やでな」

 軽く頷いた私は、そんな母の言葉もロクに耳に入ってこず、幼い女の子が気掛かりで仕方がなかった。土で汚れた制服を手で払ったり、潮で固まった髪を解したりして、なんとか彼女の目を惹こうとしていた。
 父を失った娘は、母の背中でどの様な表情をしていたのだろう。


 幾年が経過して、高校三年に進級した私は、陸上部にてその肌を焦がす毎日だった。赤に身を包んでいた鉄塔は、遠目で分かるくらいの錆を噴き出し、以前の雄大な姿は見る影もない。
 その頃の街は人口の減少に伴った影響から、高等部と中等部の部活は合同練習が主となり、男女の境なども限りなく薄まっていた。思春期の男が興味を引くのは、汗を流す女子生徒が腕を振って走る姿と、相場は決まっているのだ。従って、我が陸上部にはいつも男子の入部応募が大量に集まったし、そのほとんどが倉陽子の大人びた身体を眺めるだけの輩だった。

「見てみいや、一雄。倉が走りよるぞ。あいつの父ちゃんは、可愛らしくも何もない漁師やったが、母ちゃんは外人みたく綺麗やものなぁ」

「お前なぁ、倉の親父の事、あんま言わん方がええぜ。皆こぞって立派な漁師やったと、讃えるくらいよ。当の本人やって、裏でコソコソ親の事を言われるのは好かんやろ」

「どしたんじゃ、急に真面目ぶりよって。俺が君の父上に代わって、生涯まで守ったると、それくらいの事言ってみんかい......はぁ、さてはお前、倉が男連中の目にいやらしく映ってるのが気に食わんのやろ」

「そんなんちゃうわい。僕はなぁ、倉の親父には世話になった一人やからな──」

「一雄。いや、一雄君。お前が倉と二人の時、陽子ぉ、陽子ぉ、って仲良さそうに呼んどるの知っとるでな。どういう関係ぞ、お前ら」

 疑いの眼差しを持つ友人を置いて、私は白線の内を走り出した。ちょうど山間からの颪が、背中を押すのに良い具合の風を生み出したからである。身体全てを動かして空気を切る感覚、調子が良ければ、それは手足を思うままに支配する自らの力を実感する事が出来る。
 グラウンドを一周する前に、馴染みある背中が私の視界に現れた。痩せつつも、程良く丸みを帯びた背中。追い越せば良いのだが、正面から聴こえる激しい息使いに、どうも躊躇ってしまう自分がいた。

「陽子、何周目や?」

「......数え忘れた。分からんようなったわ」

「風、気持ちええな」

「あたしもう、喋れへん......。一雄君、また後で......ね」

 彼女はなんとかそう呟くと、一層速度を上げて、私を取り残して行ってしまった。軽く跳ねる身体が周りの風を取り込むようにして、気がつけば周囲は凪となった。
 無風の世界の中、南から漂う潮の匂いや、北から騒ぎ立てる夏虫の鳴声、時折自分の汗がグラウンドに落ちれば、そんな事を気にする間もなく、鉄塔より繋いだ電線がしなる音が辺りに響くのである。上空には、未だ強い風が吹いているらしかった。気持ち良さそうに揺れる電線は私に積乱雲の到来を知らせる。
 いつも若者の心を揺さぶるのは、こんな何の変哲もない夏の日だった。
一雄君、また後で......ね。
こんな何の変哲もない彼女の言葉だった。


 その日、夕方から激しい雨が降った。高等部の窓から外を見れば、雨粒の切れ間にぼんやりと映る小さな漁船が一つ。波は大きく揺れてはおらずとも、このような時間に船を出すとは、何事なのだろうか。水平線に沈んで行く夕陽が船の影を作っては、揺らぐ水面がその黒い形を崩してしまう。あんな風にして、人は海に喰われるのかもしれない。皆が下校してしまった後の教室に、一人の男の影が伸びていく。

「関......さん? 黄昏とるの?」
 そんな声にて意識を取り戻した私は、椅子に行儀良く座りながらも、胸元には少しのよだれが垂れていた。机に突っ伏す事なく、器用に居眠りをしていたらしい。

「ごめんなぁ、寝とったみたいや。しかし、関さんとは......なんでそんな他人行儀に呼ぶ?」

「だって、中等部の方にも迎えに来んし、誰かと話でもしてるんかと思ってん。他の人には聞かれたくないやろ? あたしが一雄君、一雄君って呼ぶの」

 少女はその頬を赤らめて、濡れた髪を撫でていた。透けたシャツの中に見える下着、張りのある胸元などは気にもならなずに、ただ自らの感情に何かの恥じらいを感じているのだろう。

「陽子が気にならんのやったら、僕はええよ」

「......でも、あたしは良いの。二人きりの時、名前で呼べたら、それで良いわ」

 意図せぬ瞬間、ふいに彼女を抱きしめたくなる。だが、今日も私の左手は傘を持ち、右手は相手と手を繋ぐのみ。何も後ろめたいという事はない。臆病になる訳でもない。ただ何故だか彼女の背後に重なるのは、迫りくる波に向かう『おじさん』の影、そして彼が『北方』と呼ぶ今や寂れた赤い鉄塔の姿。
「あの鉄塔、もうボロボロになってもうたね」
頻りに降る雨音に紛れて、そんな彼女の呟いた言葉がこちらに届いた。
 雨に濡れたそれは、より赤みを増して見えたが、明日から強まる夏の日差しは、また一段と黒い錆を生むのだろう。

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