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鉄塔がある街 (後編)

『関一雄 様

 あたしは今日、部活に出ません。
数年前に父を亡くし、母の手一本でここまで大きくなったあたしは、この街を出る事すら叶いません。そして、愛すべき貴方は、遥か遠くの東京等という都市に行こうとしてらっしゃる。その目を輝かせて、こちらに訴え掛けるさま。あまりに酷く、残酷な仕打ちだと思い......。
 もしどうしても旅立たれるというのなら、あたしにも考えがあります。あたしにも、意思というモノがあります。感情があります。海よりも深い、感情というものが──。
 父を亡くして悲しみの中にいたあたしを、救ってくれたのは貴方という存在でした。何故だか、母のどんな励ましも身に染みる事はなく、一雄君の優しい言葉だけが、この心を癒すのでした。だからあたし、貴方を失いたくないの。耐えきれません。我侭かもしれません。でも、これが最初で最後の我侭となります。
 今日、夕方にかけて海が一層深くなります。近所の爺がそう言ってました。あたし、父さんの船に乗ってこの街を出ます。どこに行けるのかは分からない、分からないけど、願わくば父さんの元へ辿り着きますよう。

                  陽子』


 校庭を抜けて坂を下る際、一艘の漁船が波に揺られて漂って行くのが見えた。煙を吹かない船は、引いて行く波を頼りにして、少しずつではあるものの、港から遠ざかっていた。
何をしとるんや、あのじゃじゃ馬......。
とんでもない行動に出やがって。
そんな想いを抱きつつ駆ける坂道は、いつものグラウンドを走るのと比較にならぬほど体力を使うものである。日が沈まぬ内に、港から出ない内に追いつかなければ、彼女を乗せた船は、確かにおじさんの元へ進んで行くだろう。
 他の漁師に助けを呼んでも良かった。いや、本来ならば、そうするべきであった。しかし、私の手で解決しない事には、陽子は納得しないだろう。助けを呼ぶには、彼女と話をした後で良い。船の備品には発煙筒の一つや二つ、備えている筈である。

 やっと港へと到着した頃、船は流れに乗って防波堤のすれすれを通り、瀬戸内へと身を乗り出した所であった。私は思考する暇もなく、港に沿った道を走りに走り、船を視界から離さぬままに防波堤を抜け、先の岩場から海へと、勢いよく飛び込んだ。
......着衣したままの遊泳は、学校の授業でよく習うところ。だが、幾ら波が穏やかとは言え所詮は人の力。引くに引く海の力には敵う筈もなく、次第に流されていく我が身を思えば、気に入っていたシャツやズボンなど重要ではない。水中にて器用にそれらを脱ぎ捨た私は、陸上部にて鍛えた脚力を以って波を蹴るも、船と自らの距離感は縮まる様子がない。
 耳に激しくぶつかる水の音、口には塩辛い味が絶えず侵入するばかりで、次第に遠ざかっていく陽子の姿を考えれば、それは怒り以外の感情を生み出す事はなく──。
「馬鹿野郎! お前は、大馬鹿野郎や!」
もがきながらも必死に叫んだ私には、最早泳ぐ力など残されていなかった。

 その時、正面に浮かぶ救命浮輪に気付いた。少し前に、彼女が海に向かって投げ出した物に違いない。最後の力を振り絞ってその浮輪を手繰り寄せると、船まで続く縄を伝って行った。
 船体によじ登った私が目にしたのは、顔を押さえて大声で泣き叫ぶ陽子の姿だった。船の動かし方など知る筈もない彼女は、波に拐われる恐怖を考えた事すらなかったのだろう。
「お前、何をしてるか分かっとるんか。こっち向け。こっちを向かんか」
 私は、彼女の手を取って、その表情を見た。それは泣くというよりも苦痛、苦痛というよりも悲痛といった面持ちで、醜く歪んだ顔は、波に揺られたせいか、より一層の苛立ちをこちらに与えるのである。

「一雄君......。ごめんなさい、ごめんなさい。あたし、あんな手紙書いたけど、死ぬつもりなんて無かったんや。船でゆらゆらしてれば、じきに助けて貰えると思ったん......」

「当たり前や。そない簡単に死んでたまるか。でもな、おじさんみたいな立派な船乗りも、この海に喰い殺されたんぞ。お前みたいなじゃじゃ馬一人で、何が出来る言うんや」

「寂しかってん。父さんが死んで、次は一雄君が居なくなってしまう思って。あたし、寂しかったの」

「お前なぁ、東京なんてすぐそこや。地図帳を捲れば、この街の次のページがもう東京ぞ。帰ったらな、地図帳貸したるさかい、よくよく眺めとくんやな......。陽子、発煙筒はどこや」

 彼女が指差す方向には確かに二本の発煙筒があった。しかし、それらは火が点くどころか、燻った煙すら出さぬまま、汐らしい顔してどこか他人事な印象すらあった。
 数年も野晒しにされた船である。今にして考えれば、火が点かぬのも当然だと言える。しかし、それを見て愕然としたのは、私よりも彼女の方だった。

「嫌や......あたし、まだ死にたくない」

「まだ死なさへん。まだお前を、おじさんの所にやるつもりはないでな......。鍵、持っとらんか。この船の鍵や」

 震える手でズボンを弄る陽子。その手を抑えて、私は彼女のポケットから鍵を取り出すと、目一杯の願いを込めてエンジンを吹かした。騒音を鳴らしながら動く漁船は、私の心を安堵させるに充分であった。だが仕事はこれから──

「陽子ぉ、おじさんはやはり、まだお前に会いたくないそうやぞ」

「一雄君、操縦なんて出来るん?」

 私にも、そんな事は分からなかった。ただ、見様見真似だとしても、やらねばならない。数年前に彼らが叫んだようにして、私も船長としての役割を果たさねばならなかった。
「北方や......! あの暗闇に光る鉄塔から目を離すなよ。あれさえ見えてれば、僕らまた手を繋いで学校に通う事が出来る! ......鉄塔か。あんな錆だらけのモノでも、今の僕らからしてみれば、灯台そのものや」
 興奮から来た饒舌なその口振りに、彼女は何も答える事は無かった。言葉が出なかっただけなのかもしれない、一連の行為を悔いていたのかもしれない。しかし我々は同じ目線を持ち、弱い光を放つ鉄塔にその救いを求めていた。
淡い光よ、消えてくれるな。
錆びた鉄塔よ、立っていろ、立っていろ。
僕が帰るその時迄、悠然とそこに立っていろ。


 我々を乗せた漁船は、防波堤や他の船に擦りながらも、なんとか港へ帰還する事が出来た。衝撃の揺れで頭を打った陽子は、一週間の自宅療養と謹慎期間を頂戴して、秋が終わる頃には陸上部へと顔を出していた。
 私たちは言うまでもなく、互いの親の逆鱗に触れた。彼女が正座にて謝りを乞う中、殴られる、蹴られる始末の僕の顔は酷い有様となり、数日の間、食事をするのも困難であった。

 相馬爺の漁船は、結局最後まで見つかる事は無かった。おじさんの呪いだとか、隣町の盗みだとか、様々な憶測を呼んだものの、謎は謎を生み出すばかりで、真実を生む事はなかった。秋を越えて活力を取り戻した相馬爺には、倉家の傷だらけになった小型漁船が与えられる事となった。その船体は今なお現役であり、相馬家長男に乗り手を変えてからは、激しい波に身体を当てる事もなくなった。
 漁船の名は誰が決めたか『心中丸』という。皆が縁起が悪いと一斉に声を上げた事で、次の文が船体の下に加えられた。
『心の中は、常に丸くあれ ─ 心中丸 ─』
それが何を意味するかは、不明のままである。

 私は数ヶ月後、予定通りに東京へと渡った。頻りに届く陽子からの手紙には、

「地図帳を見ても、東京が近いとは思えない」

「盆には帰って来て下さい。正月も帰って来て下さい。いつしかあたし、また漁に出たくなってしまうかもしれない。お父さんに会う気は、まだないけれど」

などと言う、脅迫なのかよく分からない文章を以って、私の心を弄んでいる。
 ある時、ふと思い付きで書いた文章。彼女からの手紙の返信に書いた物だった。
「相馬爺の船、陽子が流したんやないやろな」
普段より長い時間を掛けて返って来た手紙に、その事件の全容が記載されていた。

「一雄君

あたしの事、嫌いにならないで下さい。それだけ先に言っておきます。相馬爺さんの船を、瀬戸内に放流したのは、確かにあたしです。
 父さんを奪った海、漁師という仕事を、決して好きにはなれませんでした。今もです。
 いつか、一雄君も同じ様にして海へ出て、同じ様にして消えてしまうと思ったの。街一番の相馬爺さんの漁船を、海に流そうと考えついたのは、貴方への気持ちが抑えれなくなった頃。

 だって、なかなかあたしとの関係を周りに言おうともしなかった貴方ですから......。年頃の娘の気持ちを少しでも汲んで欲しかった。
 あの大きな漁船が失くなってしまえば、一雄君も海に出る事はないと思ったの。船を持たない家の子は、殆ど皆、あの相馬号に乗るんですもの......。耐えられなかった。あたし、耐えられなかったの。愛しています、心の底から。

                  陽子』

 この先、彼女が心の底から私を愛すのに疲れ果て、海の底に沈んでしまわない事を願う。 
 愛とは重罪である、感情は複雑怪奇である。十代の少女をここまで動かす事の出来る愛情とは、漁船のエンジンよりも余程強いもの......。
私はこの事実を、未だ誰にも話してはいないし誰に言うつもりもない。

 父が言っていた様に、このまま東京での就職を考えても良かった私であるが、こんな彼女を海に放り出す訳にはいかなかった。数年の内に教員資格を取り、街へ凱旋して『色白』となる旨を手紙にしたため、すぐさま陽子に送った。
 また、街に帰りたい理由がもう一つあった。耳にたこが出来るほど聞かされた東京に立つ赤い鉄塔、東京タワーは、私が思うほど優美な出で立ちではなく、赤々としたその身体こそは見事であったものの、どこか人工的な嫌いがそこには存在するのだった。
 私が求めた鉄塔は、錆付きながらも山系からの強風に耐え、時に逆風となる浜風の潮にあてられつつも、我々の街を悠然と見守るあの姿。あの『北方』にこそあったらしい。

錆びた鉄塔よ、立っていろ、立っていろ。
僕が帰るその時迄、悠然とそこに立っていろ。
そんな文章を、陽子への手紙に書こうと考えたが、止めた。鉄塔に嫉妬をする彼女の表情が、容易に想像出来たからである。

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