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事実婚派の私が結婚してしまった理由

「結婚したくないなんてそんな強がったこと言ってると、一生幸せになれないよ!」
高校生時代クラスメートにそう言われた時、衝撃を受けたのと同時に混乱して言葉に詰まったのを覚えている。17才当時、多くの同年代が花嫁を夢見ていたのは気づいていたが、それが単一の幸せの基準だとは知らず、「結婚=幸せ」というよりも「結婚しない=不幸せ」の公式が理解できずにいた。

残念なことに、私は2日前に結婚してしまった。5年間一緒に旅をした彼とだ。「残念なことに」というのは別に皮肉でもなんでもない。本当に不本意な結婚だ。別に妊娠したわけでもなく、彼のことが嫌いなわけでもない。私はただ単に結婚が嫌いなのだ。この結婚での唯一の肯定的な感情と言えば、反結婚派の私が努力もせずに、一元化された幸せを押し付ける盲信的な結婚至上主義者が喉から手が出るほど欲しい妻の称号を手に入れたことから感じられる優越感くらいかもしれない。

結婚したくなかった理由

格好をつけて言えば、「私たちの愛は古臭い制度の型に収まるようなものではない」というのが、結婚したくなかった理由だ。よく「紙切れ一枚に愛を証明してもらう必要はない」と聞くが、本当にその通りだ。

もっと噛み砕いて言うと、私たちにとっては結婚するメリットが全く見当たらなかった。結婚とは現代社会に残る不公平で男尊女卑で時代遅れな父権的制度だ。面倒な手続きを経て姓を変え、所有財産は共有され、日本だと「扶養」や「世帯」というもはや意味を持たないような枠組みに自分を押し込まなければならない。一部の国を除いて、必ず二人の男女間で行われるもので、それ以外の愛の形を持つものは、まるで存在しないかのように扱われている。姓も変えたくない、財布は別々でいたいと思う私たちにとって、結婚とは面倒くさいアンフェアなシステムにしか見えず、メリットは何も見出せなかった。

それに加え、法律上不貞を働いた場合は、それ自体で離婚の理由になりうる。しかし私たちは今までもオープン・リレーションシップを続けてきて、それは結婚後も変わることはない。むしろ、オープン・リレーションシップのおかげでここまで一緒にいられた側面もあるので、不貞によって離婚に至った時よりも、どちらかがオープン・リレーションシップを辞めモノガミーを求めた時の方が離婚危機になる可能性が高い。その場合、法律はどう機能するのだろうか。オープン・マリッジをカバーしている法律は存在しない。私たちの結婚のスタイルを保証するものが、法律上は存在しないのだ。

このようなことを述べると、彼のことを本当に愛してはいないのではないか、と誤解されることがよくある。そうではない。彼のことは恋人として、旅のパートナーとして、ソウルメイトとして、人として心から愛し信頼している。ただ、それと結婚とは別の話で、私たちは冒険心が強く不確実な未来に意義を見出す人だからか、結婚により将来に確実性が出てしまうと一気に憂鬱になってしまうのだ。

"If you love something, let it go" (好きならば自由にさせてやれ)という言い回しがあるが、私たちの関係性は、この考えに基づいて成り立っている。そのため、この真逆に位置している結婚に魅力が感じられないのだ。結婚により相手を繋ぎ止めておくことによる安心感から幸せを得る人もいるだろう。しかし私たちの場合、お互いが大好きなうちはずっと一緒にいたいけれども、諸行無常の世の中将来何が起こるか分からないわけで、もしこの恋愛関係が破綻した時には、結婚という鎖で繋ぎ止められているよりも、自由に関係を解消できる未来がある方が、幾分も幸せを感じることができるのだ。

結婚に至った理由

多くの人から反感を買うような意見を述べてしまったが、このような意見・信条を持ちつつも、私と彼は結婚するに至った。

それは、結婚が唯一の一緒にいるための手段だったからだ。詳細は省くが、このコロナ禍において、日本人の私と外国籍の彼が安全に一緒に暮らすためには、結婚するしかなかった。私たちは信条を曲げ制度に屈してしまったのだ。現代社会において様々な多様性が考慮されているとはいえど、特に男女に関する多くの制度は、いまだ大部分が結婚に基づいている。その制度を利用するために、結婚に至ったのだ。色気も素っ気もない結婚だ。結婚後もなのも変わっていないし、これからも何も変わらない。指輪もプロポーズも結婚式もない。ただ、書類上私は妻に、彼は夫になっただけだ。

また、お互い反結婚派という意見の合致によって、皮肉にも結婚する運びになったことも否めない。もし一方が結婚に前向きで、他方にその気がないと、その温度差から結婚は難しくなる可能性があるが、私たちの場合、「事実婚派の二人が制度のために結婚する」という状況であったため、二人とも割り切って流れ作業のように結婚手続きを進めることができたのだ。

全ての愛に保証を

結婚の事実はごく一部の親しい友人と両親にだけ伝えたが、「おめでとう」と言われるたびに、なんと答えていいか分からなくなる。世間一般ではおめでたいことなのだが、私としては自分が信じることに従えなかったそこはかとない悔しさを感じる。

この悔しさは、多様性を否定する不公平なシステムの片棒を担ぐ結果になってしまったことに対する、社会に認められない形の愛を持っている人たちへの懺悔の気持ちでもある。結婚はいまだ社会の中心に位置しているものの、モノガミーの男女という大多数ではあるがそれが全てではない愛の形しか対象にしていない。そのような限定的かつ排他的なシステムを社会の中心においたままにしておくと、多すぎる不幸が生まれてしまう。

私は幸い、この狭い枠組みの中になんとか収まる愛の形を有していたので、彼と一緒にいるために結婚という「逃げ道」を選ぶことができた。しかし、世の中にはこの逃げ道すら認められていない人が無数に存在する。彼らははどこか遠い国の知らない街にいるのではない。地下鉄で隣に座った人が、スーパーでたまたま同じ商品を見ている人が、大学で同じ講義を取ったあの子が、もしかしたらあなたの大親友のあの人が、この不平等な制度に今も苦しめられている。

愛の平等化というとすぐに同性愛にまつわる結婚制度が取り上げられるが、それだけではない。ポリガミーや独身主義者、事実婚派に片親など、多様な愛や家族の形が存在している。広義では、「結婚しないと幸せになれない」というイデオロギーを押し付けられ、反結婚派であることを胸を張って言えなかった17才の私も、この不平等な制度の被害者の一人だ。自分の信条に反して結婚してしまった今、17才の自分を裏切ったような気がして、そして私の周りにもたくさんいるこのような社会制度の被害者に対して、結婚を選んだことに対する後ろめたさ、申し訳なさ、背徳感によって、心から結婚を喜べない私がいるのだ。

全ての愛が平等に扱われる世の中を目指すには、もはや結婚という枠組みは捨てなければならない日が来るだろうと私は思っている。同性だろうと複数だろうと友人だろうと恋人だろうと好きな人と好きなだけ一緒に暮らせて、一人でいたいならばそれはそれできちんと社会保障を受けられ認められるような、平等で包括的な社会ができた暁には、私は今の彼との婚姻関係を喜んで解消するだろう。

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