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『君の名前で僕を呼んで』は"戸惑い"を見事に描いた最高の芸術作品でした。

『君の名前で僕を呼んで』という映画を観た。
原題は Call me by your name そのままである。しかし芸術的で良いタイトルだなあと感じる。

ついに観ることができた。ずっとずっと、待ちわびていた作品だ。今日はこの作品にいたく感動した気持ちと、この映画が名作であると感じた3つの理由について考えたことを綴っておこうと思う。

ストーリー

北イタリアの避暑地で過ごすエリオとその家族のもとに、
エリオの父の仕事のインターンとして、大学院生のオリヴァーが訪れた。
眩しい一夏を穏やかに過ごすうち、ふたりは静かに惹かれ合い、
忘れられない恋をする。

近頃はエンターテインメント作品が主流で、ほんとにたくさんあるけれど、本来、映画は総合芸術だ。『君の名前で僕を呼んで』は、それをほんとに見事に表現した映画だったと思う。

拳銃ばんばん、バスガス爆発、お車でお越しのお客様の疾走と横転

現実なら、「こんなにめちゃくちゃにして、どう思ってんだ!」というようなこうした大事件だって、「手応えアリ!」と言うことで、メイプル超合金よろしく、さらりとエンディングを迎えることもできる。

これぜんぶ近頃のコナン映画がコンプリートしてるけど、唐突に、でも確実に命がいくつあっても足りないような危険に巻き込まれる(あるいは無謀にも飛び込んでいく)コナン君と蘭姉ちゃんだって、
新一ぃぃぃぃ!!!!蘭ぁぁぁぁぁん(字余り)!!!!
と叫ぶことで不思議なカタルシスを生み出してエンディングを迎えることができている(バカにしてません。ウソです、ちょっとバカにしてるかもしれないです。でも大好きですコナン全巻持ってるし全作観てます)。

そんな映画だってもちろん大好きだけど、その中で人の心を救うのは、いつだって総合芸術として優れた点がある映画だと思うし、きっとこれからもそうだ。

とてつもない名作と感じた3つの理由

物語の中心となるのはエリオとオリヴァーの恋だ。1983年夏の北イタリアの、あまりにも美しい景観の中で、ふたりは恋に落ちる。

しかしながらこの映画のすごいところは、ふたりの恋とか、ロケーションがキレイなこと、時折流れる音楽が良いといったことだけじゃないTEIJIN

その理由は大きく3つあるとぼくは感じた。

・余白の使い方があまりにも巧みなこと
これ以上ないほどに的確で優しい言葉選びをしていたこと
戸惑いからはじまる人生の喜びと悲しみを描いていたこと

余白の使い方があまりにも巧みなこと

ここで言う"余白"というのは、視覚的なものも感覚的なものも両方あるけれど、特に後者の印象が強く残る。

夏の眩しい日差しを浴びる、青々しい木々や川の揺らぎ、透き通る海、少し背の高い草原の間を縫う砂利道。

その中を、エリオとオリヴァーは一緒に歩き、泳ぎ、自転車で走っていく。これを映し出す時間が劇中にはいくつもあって、それは少しだけ長く感じるようになっていた。

その長さというのは、語彙力の関係もあってぼくの感覚的にしか伝えられないけれど、キレイだなあと感じるには十分で、なにか深い意味があるのか?と勘ぐるまではいかないぐらいの、絶妙な時間だ。

映像的な面だけでなく、これはそこから聴こえる音に関しても同じだった。なんというか、ある意味でぴったりじゃない。お笑いなどでよくあるような、いわゆる「完璧な間」というものが、常にそこにあった。明石家さんまのトークみたいだ。

これ以上ないほどに的確で優しい言葉選びをしていたこと

これはさっきの"余白"とも少し関わるけれど、言葉として伝えようとするときにおいての的確さ、優しさがとんでもなかった。

つまり、
音としての言葉としても、文字としての言葉としてもすんごく優れている
ということだ。例えば、映画のタイトルにもなっているセリフ。

Call me by your name, and I call you by mine.
君の名前で僕を呼んで。僕は僕の名で君を呼ぶから。

大好きな人を自分の名前で呼ぶってなんだよって思いそうなもんだけど、これは大好きな人が自分の一部だとさえ思う、というような意味合いだけじゃなくて
自分のことを肯定して、好きになるということでもある、なんていう意味合いにも感じられたのだ。

「この名前で良かったなあ」

と純粋に嬉しく感じられるのは、このセリフだからこそだと思う。

そして何よりもエリオのお父さんが、エリオに伝えた言葉なんてほんとに、最高そのもの。人生そのもの。優しさそのもの。これ以上ないほどに、的確で優しくて、勇気の湧く言葉だった。

『教養』とはこういうことかなあ、と自分なりに目指したいところが見えたような気さえしているほどで、何一つ忘れたくないセリフだ。

これは原作者のアンドレ・アシマンの哲学であり、そしてそれを引き継いだ上で脚色した、脚本のジェームズ・アイヴォリーの哲学でもあるわけだけど、かくありたいと心の底から思った。

戸惑いからはじまる人生の喜びと悲しみを描いていたこと


長々と書いてしまっているが、最後のひとつである。この映画は、冒頭にも述べてはいるが、エリオとオリヴァーの恋を中心にしている。しかし重要なのは、ふたりの恋は中心にあるだけだということ。

この映画が描くところは、人生を生きていく中で出会う"戸惑い"なのだ。

相手は自分のことをどう思っているのかとか、これって恋人関係だよね?と突然定義を探し始める感じとか、相手を想うとむず痒くなるような不思議な感覚がして何か変なことをしてしまう感じとか、これが好きってことなのかなと自分で自分がよく分からない感じとか。

こういう、恋や性への"戸惑い"を、エリオとオリヴァーを中心にして、ふたりに出会って関係を築くマルシアやキアラ、そしてそれを見ているエリオの両親も含めた人たちを通じて描いている。

単純な言い方にはなってしまうけれど、そうした"戸惑い"はいずれ、好きな人に出会ったこと、好きな人と離れてしまうことといった、人生の喜びと悲しみになるわけで。それはいつの日かの、次の喜びになるだろうし、次の悲しみにだってなるだろう。
そうした喜びや悲しみをわからないままにすることも出来るようになってしまったりもするだろう。

観ているぼくたちは、映画の中にいる若者たち、あるいはエリオの両親の中に自分を見出して、まるで同じ一夏を過ごすような感覚になってしまう。

それによって、同じような経験が無いとしても、その喜び悲しみに気づいていないとしても、心のどこかにしまわれているものと、この映画の芸術性とが静かにリンクしてしまうんじゃないかな。

それこそがこの映画が最後に到達する場所で、名作たる所以なのだと思う。

『君の名前で僕を呼んで』は、ほんとに見事な芸術作品だった。

ぜひ、たくさんの人に観て欲しい。

ものっそい喜びます。より一層身を引きしめて毎日をエンジョイします。