作者が本気で自分の小説を解説してみた3「セームセーム・バット・ディッファレン」

こちらは八幡謙介が2020年に発表した解説本です。


 本書は拙著「セームセーム・バット・ディッファレン」の解説本となっています。本編は全て収録されていますが解説文に寸断されています。本編をストレスなくお読みいただきたい方は「セームセーム・バット・ディッファレン」を別途ご購入ください。

執筆の動機

短編数冊と長編「未来撃剣浪漫譚ADAUCHI」を書き上げた僕は、ある意味で小説執筆の本丸ともいえる純文学の長編を書こうと決めました(結果的に中編ぐらいになりましたが)。当時好きだったカンボジアを舞台に、青春、恋愛、旅、モラトリアム期の葛藤、内面の成長などを盛り込んだ自分らしい文学、自分の文学的出発点となるような作品、そういったものを書こうと決意し、本作の執筆にとりかかりました。
 この時点でタイトルは「セーム・セーム・バット・ディッファレン」に決めていました。これは作中でも説明していますが、実際に使われているカンボジアン・ジョークのようなもので、コミカルだけどどこか深いなと以前から思っていました。純文学作品にも、主人公が冒険し、特になにも変わらず帰ってきたけど、どこか違っている…といった内容のものがよくあります。普通の大学生がひょんなことからカンボジアに行って、それなりに羽目をはずすけど人の道は外れず、恋愛をし、いい出会いがあり、無事に帰ってくるだけ。サラっと読めば『で、何?』といったお話だけれど、深く読み込むと何かがありそうな話。今思い出すと、綿谷りさの「インストール」と、フランス映画「猫が行方不明」(セドリック・クラピッシュ)の影響が出ていると思います興味がある人はそれぞれチェックしてみてください。

主題

 本作の主題は「アイデンティティの模索」です。
〝いい人〟がアイデンティティの主人公ユウ。しかし、その〝いい人〟であることが理由で彼女に振られてしまう。アイデンティティ崩壊の危機に瀕した彼は、先輩のすすめでカンボジアを旅することにする。旅を通じて新たなアイデンティティの獲得を目指すユウ。気怠い熱帯の地で、妖しい誘惑や危険な恋に溺れそうになる彼を救ったのは、意外にも〝いい人〟という旧来のアイデンティティだった。そしてユウは、同じだがどこか違う日常へと帰っていく……。
 そういう物語です。この「同じだけどどこか違う日常に戻っていく」という主題が「インストール」や「猫が行方不明」と類似しているところです。
 主題の大きな流れとしては、

崩壊 アイデンティティ・クライシス
 ↓
 冒険・模索 非日常への惑溺
 ↓
 回帰 セームセーム・バット・ディッファレン

です。もっと細かく分けると、

〝いい人〟でいれば一生安泰
 ↓
〝いい人〟だから彼女にフラれた、どないしよ…
 ↓
 よっしゃ、カンボジア行って新しい価値観ゲットするぜ!
 ↓
 ジュリ「あなたがいい人だから安心する」
 ↓
 ユウ「あれ、〝いい人〟でやっぱ得したぞ? このまま帰らず、ずっとジュリと旅しようかな?」
 ↓
 恋敵登場、ユウ「イケメン死ね!」
 ↓
 ミツルさん「悪の道へカモ~ン」ユウ「ウェーイ」
 ↓
 ジュリ「嘘ついて風俗とかキッモ!」
 ↓
 ユウ「ウェッ…ウェッ(涙)。あ、ジュリ消えた……」
 ↓
 コウスケさん「まあ飲めよ、おごるから」
 ↓
 ユウ「めっちゃ〝いい人〟やん!。そういえば、ミツルさんも、保坂先輩も……」
 ↓
 よっしゃ、日常に帰ろ!(セームセーム・バット・ディッファレン)

という流れです。ポイントは、〝いい人〟のせいでアイデンティティが崩壊した男の子が、〝いい人〟意外の何かを模索し、最終的に発見したのが〝いい人〟だった。でもそれは今まで自分が考え、実行してきた〝いい人〟とはどこか違っている……という点です。これとタイトルの「せームセーム・バット。ディッファレン」をかけています。

裏テーマ

 僕は2005年にカンボジアをはじめて訪れて以来、2009年までに4回か5回ほど訪ねました。最初はおっかなびっくりでしたが、慣れてくるとカンボジア独特の楽しみ方がわかり、豊かな自然や美味しい料理、のんびりとした風土、フレンドリーな人たちに癒やされるようになりました。と同時に日本でのカンボジアのイメージがだんだん気になってきました。僕が「カンボジアに行く」と言うと、十中八九人は「ボランティア?」「地雷撤去に行くの?」と冗談とも本気ともつかないリアクションを取ります。また、メディアがカンボジアを取り上げる際は必ずといっていいほど貧困、内戦、破壊された国土、ポルポト派、地雷、電気水道のない村、学校に通えない子供たち、果てはチャイルドポルノといったマイナスな面ばかり取り上げ、さもそれが彼の国のリアルだといった演出で番組が構成されます。もちろん目的は、そういった過酷な環境で芸能人が奮闘し、イメージアップを図ることです。
 ――カンボジアにはもっと美しいもの、美味しい料理、豊かな伝統文化、楽しい日常があるのに!
 そうした悔しい思いをこの作品で解消しようと思い、カンボジアの美しさ、楽しさをできるだけ盛り込もうとしました(多少ダークな歴史やイリーガルなものも取り扱いましたが)。
 余談ですが、2019年になってようやくテレ東が「旅ジョ 絶景・美食・癒やしのカンボジア」と題した旅行番組を放送したのですが、内容は全て楽しい、美味しい、美しいカンボジアでした。ようやくカンボジアの魅力を正しく伝える番組が出てきたと思い、感無量でした。

構成・文体

 本作は主人公ユウの一人称独白体を採用しました。三人称にすると主人公本人も気づいていない心の動きなども描けるのですが、その分書き手と主人公、読者と主人公に距離ができてしまう恐れを感じました。そこで、僕自身がユウに憑依して書くことで、読者もいつの間にか彼になりきって自分がカンボジアを旅している気分になってほしいと思い、この文体にしました。これは結果的に大当たりで、様々な読者様から「気がついたら自分がカンボジアを旅している気分で読んでいた」と言っていただけました。
 主人公は二十歳の心優しい大学生なので、一人称は【僕】、語尾は【である】を意識的に避け、若者の口語にできるだけ近づけました。そうすることで、主人公の年齢感を常に感じてもらうのが狙いです。
 さらに、細かいことなのですが、旅先では人物名を全てカタカナにしました。誰しも、旅に出ると日常から解き放たれ、違う自分になります。違うけどでも同じ、つまり「セームセーム・バット・ディッファレン」ということです。ユウだけは回想シーンで一瞬漢字表記にしてあります。また、回想シーン(日本)に出てくる人物も全て漢字表記です。

作中、カンボジアに入ってからは固有名詞をあえて出さないように意識しました。なぜかというと、ナレーションは全てユウ目線であり、明かにユウが知らないはずのものを口にしてはおかしいからです。カンボジアに生えている木を見たらその名前がすぐ出てくるのではなく、「なんか南国っぽい木だなー」と思うのが自然でしょう。複数の執筆を経て、こういった作業を事前に詰められるほどに僕は小説家として成長していたようです。

リアリティ

 カンボジアをリアルに描くことはとても簡単でした。実際に自分が旅した時のことを思い出して書けばいいだけなので。気候、現地の人、街の風景、物価、その他この街からこの街までバスで何時間とか、このホステルからこのマーケットまで歩いてどれくらい、アンコール遺跡は何から見学するか、どれくらいの規模か、どれくらい時間がかかるかなどなど、全て体験から書いたのでかなりリアルだと思います。その中で偶然主人公がヒロインと出会い、一緒に観光するという流れを無理なく挿入しました。さすがに2020年からすると街並みなどちょっと古いと感じるでしょうが(ちなみに僕が最後に旅した2009年には、まだ市内にバスが走っていなかった)。

 機体が強烈に揺れてあちこちから悲鳴が起き、「ああ落ちる、死ぬ!」と目を瞑った瞬間、股の間に湿り気を感じて、終わったなと脱力した。
「ア、ゴ、ゴメンナサイ!」
「え?」
 窓側の席に座っている中国人風の女の子が、カップを手にしたままおろおろしている。飛行機は揺れながらもなんとか飛んでいて、僕は色んな意味でほっとした。
「ああ、えっと、大丈夫……」
 前の席の背中についているポケットからティッシュを取り出して、ジーンズに広がった沁(し)みを申し訳程度に拭き取った。無言で作業する僕が怒っていると思ったのだろう、女の子は再度、「ゴメンナサイ、あの……おカネ、払いますから」と、たどたどしい日本語で呟いた。
「大丈夫、大丈夫! 中までは沁みてないから。気にしないで」
 とりあえず彼女を安心させるため、目を見て、笑顔でそう返した(本当は中までしっかり沁みて強烈に不快だったけど)。ちゃんと見ると、色が白く、目が厚ぼったくて可愛い。女の子は少しだけほっとしたようだ。
 やがて小刻みな揺れも収まり、ベルト着用のサインが消えて、僕は中まで拭くためにトイレへと向かった。前からは好奇の視線を股に、後ろからは心配の視線を背中に感じながら。

小説一番気を使うのが、主人公の紹介です。独白体だからといって【僕はユウ、二十歳の大学生さ】などと始めてしまったら興ざめです。かといってまだ誰だか分からない状態で動かすのも不安がある。でもどうでもいいようなシーンから始めたくはない……。そこで僕は、いきなり飛行機内でのハプニングからスタートし、ユウの性格や人となりがなんとなく掴めるようにしました。
 具体的には、迷惑をかけられたのは自分の方なのに、その相手を安心させようと笑顔を作るところです。
 カンボジアには直通便はないので、今回は上海で乗り換えです(僕も実際そうしたことがあります)。ということは隣に乗っているのは中国人であるのが自然です。ただ、今考えればいきなり可愛い女の子が股間に飲み物をこぼしてくるというのはちょっとわざとらしかったかもしれません。今なら違う書き方をしたでしょう。

「ホントに、ゴメンナサイ、だいじょぶ、ですカ?」
 席に戻ると、女の子はまた、たどたどしい日本語で謝ってきた。まだ少し怯えた様子で、僕はかえって悪いなと感じ、改めて笑顔で問題ないことを告げた。彼女は続けて、
「えと……もし、Shanghaiにクルでしたら、ワタシ、お礼します」
〝上海〟だけやたら発音がいいことに、変に感心した。やっぱり中国人みたいだ。
「お礼? ああ、『お詫び』ってこと?」
 彼女はそうそうと、小刻みに顔を縦に振る。
「いいよ、本当に、なんでもないし。それに、行くの上海じゃなくて、カンボジアだから」
「カンボジア!」
「そう、カンボジア」
「でも、ヒトリ? 危なくない?」
 心配そうな顔つきに、ぐっときた。僕は自信満々に、
「全然、今はもう治安も安定しているし、衛生状態もよくなってるから、普通の観光と同じだよ」
 と、事前に集めた情報をそのまま伝えた。すると彼女の眼差しが、心配から尊敬に変わった。それとは逆に、僕の心は急速に不安で満たされる。本当に、一人でカンボジアを旅して大丈夫なのだろうか?…… 
 変な間が空いたので、僕は不安を振り切るように彼女に訊ねた。
「あの、お名前は?」
「メイ、トトロと同じデス」
「あ~」と頷(うなず)きながら笑うと、彼女は満足そうにした。こう言えば日本人受けするということを知っているんだろう。
「僕は、ユウ。『優しい』のユウ」
「名前とイッショ、やさしいデス」
 メイはそう言って口をすぼめたまま微笑んだ。
 そこから、お互いのことを話した。僕は大学二年で、都内に一人暮らし、彼女とは半年前に別れた、海外旅行は初めて、バイトはスタバ、好きなアニメは『エヴァンゲリオン』(本当は『けいおん』だけど)。メイは十九歳、去年から出稼ぎに来ていて、横浜在住、日本語を勉強しながら働いている、宮崎アニメは初期の方が好き、彼氏はいない、夢は両親に家を買ってあげること……。仕事の内容はメイからは言わなかった。水商売かもと思って、当たっていたらちょっとショックだから、詳しくは訊かなかった。
 自己紹介がてらの雑談を一通り済ませたところで、まもなく上海到着のアナウンスが流れた。退屈しているときほど時間が長く、楽しいときほど短く感じられるという脳の意地悪な構造を僕は恨んだ。楽しいときは、時間はもっと間延びするべきだ。

ユウがトイレから帰ってきたところで自然と会話がはじまります。その会話を通じて読者にユウの紹介をする、という作戦です。作戦自体は悪くないと思うんですが、やはり書き方がちょっと若いですね……。せっかく装置を設定しておいて結局【僕は大学二年で、都内に一人暮らし】と説明になってるし、【エヴァンゲリオン】とか【けいおん】といった固有名詞を出すとすぐに古くなってしまうのに、それが分かっていません。既に2021年現在、これらの単語を聞くと『うわ、おっさん…』と感じてしまい、大学生感がしません。ここは失敗と言っていいでしょう。
 まあとにかく、主人公の名前、性格、そしてカンボジアに向かっているということが、一応シーンの描写で提示できました。

 機体は無事着陸し、僕はもう少しメイと話したくて、〝荷物降ろし競争〟に半ばわざと出遅れた。エコノミーの狭い通路は瞬く間に人で埋まり、メイを見ると、彼女は西洋人のように肩を窄(すぼ)めた。おどけたしぐさが可愛かった。
「ゴメンナサイ、中国人、いそがしいデス」
「ううん、全然、急いでないし。荷物降ろすからどれか教えて……って、みんな行ってからじゃないと無理だね」
「アリガトウ」
 メイはそう言って微笑んだ。僕はまた急速に心が冷めていくのを感じた。二度と会わないであろう中国人の女の子にさえ、全速力で『いい人ランキング』上位に駆け上がろうと必死な自分。ずっとこのまま、〝いい人〟でいさえすれば、何もかもうまくいく。ほんの少し前までは、本気でそう信じていた。
「ユウ……さん?」
「え? あれ? ああ、ゴメン!」
 メイの言葉で我にかえって通路が空いていることに気づき、僕は慌(あわ)てて立ち上がった。
 結局、彼女とはアドレスも交換せず、謝罪やら、お礼やら、励ましやらの言葉を交わして分かれた。少し寂しかったけど、幸先の良い出会いに旅の充実を予感した。それから、レストランやパブ、各種ショップには目もくれず、次の搭乗口へと直行した。
 搭乗口付近の椅子に座り、バックパックを隣の席に置いて、時間を確認した。あと三時間弱は待たなければいけない。あちこちから聞こえる、怒鳴りあいのような中国語の会話をBGMに、僕は慣れない思索(しさく)に耽(ふけ)ることにした。

ここで行っているのは〈主題の提示〉と〈回想への導入〉です。
 まず飛行機が上海に到着し、自己紹介用のキャラであるメイとはここでお別れ。ご都合主義的なキャラの使い方は反省点です。
 乗り継ぎまで空き時間がかなりあり、その時間を使ってユウに回想をさせます。これはまあまあ自然な流れだと思えます。

「カンボジアっすか?」
「おう、面白ぇぞ。安いし」
 保坂先輩はそう言って勢いよくビールを呷(あお)った。僕はこの旅慣れた――といっても、直接旅の話を聞いたことは今までになかったけど――先輩に、春休み一人でどっか旅行に行きたいんすよね、できれば海外に、と相談を持ちかけると、そのまま激安居酒屋に連行されたのだった。
 先輩のジョッキにはまだビールが残っていたけど、心配なのか、テーブル脇のタッチパネルを慣れた手つきで操作し、追加を注文した。一旦手を離してから、思い出したように、
「あぁ、お前、何かいる?」
「そうですね、おつまみ、枝豆以外で何か」
 言わなければ保坂先輩は、際限なく枝豆を注文する。操作が終わるのを確認し、僕は改めて問い直した。

いきなり過去に飛んでいますが、普通に読み進めていけば状況は分かると思います。
 この保坂先輩も、ユウがカンボジアに行くきっかけを作るためだけのキャラでしたが、書いているうちに血が通ってき、登場は短いながらも意外と存在感のあるキャラになりました。今後も回想で時々出てきます。ご都合主義的キャラでも、きちんと書けば作品の中で生きてくれるということでしょう。

「でも、カンボジアって、究極じゃないですか? 地雷を踏んだらサヨウナラって感じ……」
 保坂先輩はじろっと僕を見て、不敵に口角を上げた。
「お前もTVにやられてんな。地雷に貧困に、ストリートチルドレン、学校や、井戸さえない村、あげくにチャイルド・セックスってか」
 枝豆を職人的な手捌きで剥(む)きながら、
「あんなのはずっとずっと前のハ・ナ・シ。今はもう普通の、ちょっと貧しい観光地だよ。観光しにいって地雷踏むなんてあり得ねぇし、インフラはずいぶん整備されてきている、まあ、貧しいっちゃ貧しいけど、俺ら目線で見るからであって、現地人にしちゃあ右肩上がりさ。それに、悪名高いチャイルド・セックスも今は闇の闇、ロリコン紳士たちはとっくによその国に鞍替えしてるよ」
 ビールと枝豆、唐揚げが来た。僕は終わった皿を店員に渡し、テーブルをお絞りでさっと拭いた。
「でも、治安とか大丈夫なんですか? 伝染病とかも」
「変な時間に変なとこに行かなきゃ問題ねぇよ。日本が安全つっても夜中二時に歌舞伎町うろうろしてたらヤバいだろ? まあ、そんなとこだ。あとは、水道水と生ものは控える、調子こいて川で泳がない、女買うならゴムは必ず付ける、それだけ気をつけてりゃ十分!」
 僕の中のカンボジアのイメージが一瞬で崩壊した。それまでは、一般的な日本人と一緒で、マイナスイメージしか持っていなかった。もし行くとしたらボランティアで、それなりに覚悟を決めて。
 保坂先輩はビールを呷(あお)り、
「TVのドキュメンタリーとかでさ、芸能人が向こう行って、ボランティアしたり、地雷の被害に遭った子供なんかと触れ合って泣いてみたり、水道のない村で井戸掘ったり……。俺さ、ああいうのが一番向こうのためになってねーんじゃねぇの? って思うわけ。あれ観た人はどう思うよ? 優はそんなの観たことある?」
「ええ、何度かあります。……どう思うかって? そうですね……、貧しさや不条理の中でも頑張って生きている子供たちと日本の有名人が触れ合って、――」
「それ!」
 保坂先輩は、枝豆でぴっとこっちを指した。僕は緑色のちっちゃな剣を見やった。
「カンボジアの貧しさとか、不衛生さとか、危険さとか、そういったとこばっかが強調されるんだよ。いや、故意に強調させてる。何故か? それはだなあ、」
 僕は酒臭くて妙に粘っこい唾を呑んだ。保坂先輩は思い切り顔をしかめて、
「カンボジアが貧しければ貧しいほど、不衛生で、危険であればあるほど、そこで何かする芸能人のイメージアップになるからだよ! あーいう番組ってのは、マイナスイメージありきだから、カンボジアのリアルが全然わかんねぇの。実際行ってみればそんなでもねぇから」
「ああ~、なるほど……」
 確かにそうだ。メディアで取り上げられるカンボジアは、いつも貧しく、危険で、不衛生、僕は完全にそれを刷り込まれていた。カンボジアの楽しさ、美味しいもの、美しいものって……浮かんでこない、いや、待てよ、そういえば……
「先輩、そういえば、アンコール・ワットって、タイでしたっけ? カンボジアでしたっけ?」
 すると保坂先輩は一瞬目を見開いてから、がっくりとうなだれた。
「お……ま……え、俺はこんな後輩を持って悲しいよ。カンボジアだバカタレ。まあいいや、俺が言いたいこととつながったから、要するにだな、カンボジアのために何かしたいとかって考える野郎どもは、アンコール・ワットやあのへんの遺跡群の美しさとか壮大さ、その周辺のインフラや、ちゃんとしたホテルや美味いレストラン、そういったのをきちんと紹介するべきなんだよ。そしたらそれを聞いたやつは『楽しそう、行ってみたい!』って思うだろ? だろ? そういうイメージが定着したら観光客が増える、観光客が増えればカンボジアが豊かになる、これ以上のボランティアがあるか? つまりだ、お前は美味いもん食って、美しい遺跡を観て、楽しむだけ楽しんでくりゃいいの。それが最高のボランティアなのさ! キリングフィールドとかトゥールスレン、地雷博物館なんて辛気くさいもんは飛ばして結構、まあプノンペンは一泊で十分だな、シェムリアップには最低でも三泊。そんで――」
 なぜか、僕はもうカンボジアに行くことになっていた。でも、悪くなかった。
 保坂先輩はそこから、延々とバックパッカーの心得のようなものを説き始めたが、だんだん呂律が回らなくなってきて、後半はほとんど何を言っているのか分からなかった。

ここでは保坂先輩がユウにカンボジアを解説するという構図を使って、実は読者にカンボジアがどんな国で、どういう風に誤解されているかを説いています。そこから本作の裏テーマである〈美しい、楽しいカンボジアの提示〉を行っています。

【つまりだ、お前は美味いもん食って、美しい遺跡を観て、楽しむだけ楽しんでくりゃいいの。】

ここに本書の主題の半分が提示されていると言っていいでしょう。実際、ユウもこれからそういう旅を行います。
 ちなみに、ここはまだ旅に出る前のシーンなので【ユウ】ではなく【優】と漢字で表記しています。

 目の前を横切った中国人女性に一瞬メイを思い出し、思考は寸断された。時計を見るとまだ十五分程度しか経っていないけど、気がつけば辺りでは、中国語の他に英語やよくわからない言語が混じってきている。だだっ広いロビーを改めて見渡すと、また不安がよぎった。本当に一人で大丈夫なのだろうか? と、
 ――ユウハ、イイヒトダカラ。
(え?)
 僕は飛び上がりそうになって、急いで辺りを見廻した。やっぱり、外国人しかいない。よほど挙動不審だったのだろうか、向かいに座っている中国人の太った男性が怪訝(けげん)そうに僕を見つめている。

一瞬現在に戻ります。そこから次の回想に入るのですが、ここはちょっと分かり辛かったかなと反省。

「優は、いい人だから……」
「え?」
 下を向いたままマフラーをいじりながら、璃(り)乃(の)がそう呟いた。店内には、売り出し中の歌手の、一足早いウインターソングが流れている。
 メールの感じから、別れ話だということは察しがついていた。けど、まさかこんな風に切り出されるとは思ってもみなかった。僕はもう一度、どうしても確認したくて、テーブルの上のものに順繰りに目をやりながら、「えと、その……いい人だから別れたい……てこと?」と恐る恐る訊ねた。璃乃は俯(うつむ)いたまま、黙って頷(うなず)く。失恋の事実よりもその理由の方がショックで、僕は気が遠くなりそうだったけど、肩にぐっと力を入れてなんとか持ちこたえた。そして、一度深呼吸すると、彼女の考えを尊重し、受け入れる、けどもう一度やり直したくなったら気軽に相談してほしい、自分はすぐには彼女を作る気はないから待っている、でも、もし璃乃に新しい彼氏ができたときは仕方ないから諦める……といったことをしどろもどろに告げた。もちろん、本心ではなかった。しかし、話を聞く璃乃の表情は、だんだんと険しくなってき、最後はほとんど、蔑(さげす)むような目つきで僕を睨(にら)んでいた。誠意を持って別れ話に対応しているのに、どうしてこんな態度を取られなきゃいけないんだろう? 僕の話が終わると、璃乃は待っていたかのように「じゃあ」と立ち上がり、テーブルの伝票に手を伸ばした。その手を僕は、自分でも驚くほど素早く、荒々しく掴んだ。
「最後ぐらい払わせて、いつもみたいに」
 すると彼女は大げさに溜息をついて、
「そういうの、もういいから」
 力が抜けた、というよりは、腕そのものが消えた気がした。僕の手からすり抜け、伝票を手にしたまま無言でレジに向かう璃乃の背中を、呆然と眺めていた。

こちらもユウの表記が漢字の【優】になっています。
 今度の回想はユウの失恋シーンです。こちらは本主題そのものを提示しているので、実はとても重要なシーンとなっていますが、主題に気づかなければ流してしまうかもしれません。
 ここで元カノの璃乃が登場します。といっても彼女も回想でしか出てきませんが、ユウは璃乃を引きずってるので時々思い出します。
 ちなみに、【マフラーをいじりながら】という描写を入れたのは、これから向かうカンボジアとの違いを演出し、回想感を強調させるためです。こういうなんでもない描写に結構作者の意図があったりするので、こういったところは今後も拾っていくつもりです。

 あのとき、世界が崩壊した。同時に、世界の外側が一瞬見えた気がした。この退屈で凡庸(ぼんよう)な、どこまでも、どこまでも続く果てしない日常の外にある世界……
 それが旅の理由だと言えば保阪先輩は僕になんて言っただろう? そう考えて一人、頬を緩めた。
 ふと目をやると、窓の外にはターミナルの無機質な光の群が夜に煌(きらめ)いていた。それはどこか、日常的な人の営みを想わせる堅実さがあった。僕はポケットからiPodを出して、機内用に入れた『お気に入り』を再生した。

飛行機が上海に到着するとき、ユウは心の中で

【ずっとこのまま、〝いい人〟でいさえすれば、何もかもうまくいく。ほんの少し前までは、本気でそう信じていた。】

と内省していたのを覚えていますか? この【ほんの少し前】とは、璃乃に振られる前です。ユウは自身のアイデンティティの核とも言える〝いい人〟が自分に不幸をもたらしたことで、世界が崩壊するほどの衝撃を受けました。と同時に、自分が狭い狭い世界にいたことを直感します。世界の外に出れば、〝いい人〟ではない新しい自分が見つかるのではないか? 実はユウは心の中でそう思っていました。そこに保坂先輩のすすめもあってカンボジアを旅する決意をしたのでした……。
 と、ここまでで主題はほぼ全て提示しています。後は、美しく楽しいカンボジアをどれだけ描ききれるか、そして、ユウは新しいアイデンティティを見つけることができるのか? それはどういうものなのかをしっかりと描写することに本作の出来がかかってきます。後者については既に述べたように、〝いい人〟以外の何かを模索→〝いい人〟たちに助けられる→あれ、〝いい人〟で別にいいんじゃね? →タイトル回収、という流れになっています。それらを読み取ることができれば本作をアイデンティティの物語として読み進めることが可能となります。それが掴めなければ単なる大学生の傷心旅行とか、バックパッカー小説としてしか理解できなくなってしまいます。まあ、作者としては別にどっちでもいいんですが、主題を理解された方が嬉しいといえば嬉しいですかね……。
 余談ですが、主人公がiPodを使っている時点で、2021年現在からするとかなり古くさく見えてしまいます。これは失敗でした。後にも登場しますが、その度に『古っ!』と感じ、後悔の念にさいなまれます。かといってスマホ荷してもそれはそれでまた古くなっていくのですが……
 さて、ここまでで自己紹介、旅の動機、主題の提示と一通り済ませることができました。ここからはいよいよカンボジアを旅していくことになります。

 二十三時過ぎ、飛行機はプノンペン国際空港に無事到着した。機内からボーディング・ブリッジへと一歩出た途端、甘い夜の熱気が僕を包んだ。ロビーに出てから、一旦着ていたパーカーを脱いで、ちょっとダサいけど腰に巻いた。長袖の腕を下腹でキュっと締めると、柔道の帯みたいで気合が入る。とりあえず、ゲストハウスまで無事に着く!
 ベルトコンベアで流れてきたバックパックを背負い、入国審査へと向かう。褐色の四角い顔の係官がパスポートを調べている間、僕は彼の分厚い唇に見とれていた。あちこちに顔面が掘られた遺跡をガイドブックで見たけど、あの彫刻そっくりの唇だ。係官は、判子をリズミカルに何度か押し、パスポートを僕に返す際、無表情で「ヨウコソ」と告げた。なんとも締まりのない旅の始まりだったけど、気分は高揚していた。
『まずは空港から宿までのバイタク選びだな』
 保坂先輩の赤ら顔が浮かんだ。僕はあれから何度も〝レクチャー〟と称して、飲みに付き合わされていた。
『タクシーは〈バイタク〉、バイクのタクシーな、これが基本。一人ならトゥクトゥクや四輪のタクシーは乗らなくていい。トゥクトゥク? ああ、観覧車みたいなのをバイクで引っ張る乗りモンだよ。到着は? 夜か……。ならバイタクは、最初はまずおとなしくて頼りなさそうなやつを選べ、そこはほかのやつよりちょっと高くてもいい。安さにこだわって最初に変なやつに当たるとやっかいだからな。そいつが安全運転で親切なやつなら、翌日の観光も頼めばいい』
 先輩のアドヴァイスを反芻(はんすう)し、僕はもう一度小さく気合を入れなおして、狭いロビーから一歩、外に出た。すると、独特の匂いと共に、今まで感じたことのないような、分厚くて、甘ったるい熱気が僕を包んだ。暑い。キョロキョロしていると、褐色のどこかだらしない服装をした男たちが僕に気づいて、一斉に声を上げながら近づいてきた。皆、絵に描いたように怪しい……
「サー、taxi? サー」
「ミスター、ミスター!」
「ワタシ、ヤスイ、オニイサン」
 囲まれた。それぞれ、カタコトの日本語や訛りの強い英語でしきりに自分をアピールしている。なぜか服装は皆同じで、長袖のシャツの裾を出し、下はちょっと大きめのスラックス、足元はサンダル。それにしても、気の弱そうな、優しそうな人がいない。仕方ない、カンでこのうちの誰かに決めようか……
 と、ロータリーにボロボロのホンダが停まった。運転席から僕を囲んでいるやつらと同じような格好の男が出て、トランクを開け、大きな荷物を降ろした。遅れて後部座席から白人女性が一人出てき、荷物を降ろし終えた運転手に何か告げている。別れの挨拶だろうか? 男は終始笑顔で、白い歯が清潔だった。女性が去ると同時に、僕は彼の元に引き寄せられるように歩を進めた。
「ハロー」
 運転手は驚くでもなく、さっきと同じ笑顔で、
「Hello sir,taxi?」
「イエス、あー……キャピトル・ゲストハウス、ユ・ノウ?」
「Yes sir, but――」
 彼は流暢(りゆうちよう)な英語で僕に何かを話し始めた。なんとか「expensive」という単語だけ聞き取ることができた。どうやら、四輪だからバイクより少し高いということを説明してくれているらしい。まっすぐな瞳が熱帯の夜に映え、どこか夜行性の鳥を連想させる。直感で決めた。
「オーケー、ノー・プロブレム!」
 僕は笑顔で応えて、彼のホンダに乗り込んだ。保坂先輩、ゴメン。

まずはカンボジアの熱気をどう表現するかに悩みました。結果僕は【甘い】【分厚い】と表現することにしました。これは実際に現地に行って感じたことでもあります。
 さて、空港に着いたら最初の難関はタクシー選びです。保坂先輩のアドヴァイスは正論と言えるでしょう。ちなみに、僕の記憶ではなぜかバイタクは皆同じ格好をしています。
 結局、ユウは直感で車のタクシーを選びました。これ自体特に意味はないです。

 道路は意外と広くて、綺麗に舗装されていた。運転もスムーズだ。僕は少し安心して、前のめりの体勢をやめ、シートに深々ともたれた。
 運転手は英語で自己紹介してくれた。名前はカンボジア独特のものなのか、妙なリズムで、よく聞き取れなかった。こちらも「マイ・ネーム・イズ・ユウ」と返すと、「Oh! your name is me!」と言って笑った。僕も釣られて笑った、意味は分からなかったけど。
 笑うと少し不安が晴れた。やっと外を見ると、クネクネしたクメール文字や、見慣れない漢字の看板を掲げた建物が密集している。市街に入ったみたいだ。町並みは雑然としてはいたけど、思ったより綺麗で、それほど危険な香りもしなかった。街灯も設置されている。ネットでは、〈プノンペンの町並み〉と題した、バラックが立ち並んでいる小汚い通りの写真があったけど、そういった道は避けて走っているのだろうか?
 運転手(結局名前は分からないまま)は、僕の英語力を理解したのか、口をつぐんでいる。それがちょっと悔しくて、何か話そうと単語を頭の中で組み立てているうちに、車は大通りから少し狭い路地に入って、停まった。
「This is Capitol Guest house, sir.」
 そう言われて、彼が指をさした方向を見やると、入り口に格子が下りていて、その先には薄暗い階段が見える。入れない! 僕は一瞬でパニックに陥(おちい)った。「え? ちょ……何で? 何で!」と小声でわめきながら車を飛び出し、入り口の前まで来て呆然と立ち尽くす。深夜のカンボジアで迷子? どうしよう、保坂先輩……。すると、運転手が僕の傍(かたわ)らにそっとバックパックを置いて、壁についているチャイムを鳴らし、僕の肩を叩いて笑った。ほどなく、男が眠そうに階段を降りてきて、簡単に格子を上げた。施錠はされていなかった。
「Check in?」
「イ、イエス!」
 急いで運転手に料金を払い、礼を言って、僕は眠そうな男の後から薄暗い階段を上った。後ろで車が走り去る音がした。
 コンクリートの階段を上ったところに机があり、その前にある踊り場で男らが数人雑魚寝をしていて、面食らってしまった。一人分スペースが空いている。彼もここで寝ていたんだろう。恐るべし、クメール人。
 チェックインを乱雑に済ませ、僕はまた階段を上って、部屋に入った。鍵を内から閉めて、荷物を置いた途端、疲れと安心感で強烈な眠気に襲われて、そのままベッドに倒れ込んだ。シーツからはほんのりと、変な匂いがした……

ユウの緊張を表現するため、【僕は少し安心して、前のめりの体勢をやめ、シートに深々ともたれた】という演技をさせています。こういった細かい表現の積み重ねが大事だと僕は考えています。
 冒頭でも述べましたが、本作はユウ自身の独白体となっています。ユウが知らないことは一切ナレーションできません。だから、空港から市街に向かうとき、「○○ストリートを右折して△△アベニューへ」などとナレーションを入れるのは不自然になります。いくら事前に勉強してきたとしても、はじめての土地を夜遅くに車で走っていて、正確に通りを把握するのは難しいでしょう。だから、車窓から見える看板などでぼんやりと市街に入ったことを描写しています。
 その後、到着したホテルが閉まっていたり、踊り場で従業員が雑魚寝していたりというのは実体験です。最後に【シーツからはほんのりと、変な匂いがした】と描写を休めていないところは自分を褒めてあげたいです。
 ちなみに、この〈キャピトル・ゲストハウス〉は実在します。

 クラクションの音にふと目を覚ますと、強烈な暑さに辟易(へきえき)した。全身、汗だくだった。うつ伏せの状態からもそもそと正座して、ようやくここがカンボジアだということを思い出した。シーツに汗で沁みができている。服を脱ぎながらぼんやり部屋を見渡すと、汚い。壁はくすんだ色であちこち剥(は)げてるし、シーツや枕カバーもよく見たらうっすらと黄ばんでいた。窓には鉄格子がはまっていて、遠くからひっきりなしにクラクションの音が聞こえる。素っ裸で窓に向かい、外を眺めると、
「すっげ……」
 思わず声が漏れた。少し大きめの十字路の中心にバイクや車が密集していて、それぞれがそれぞれの進行方向を主張しながら、全体がゆったりと渦のようにうねっている。信号はなかった。無事真ん中を抜けた者は、一気にスピードを上げ走り去って行く。だいたいがカブらしき原付で、誰もヘルメットはしていない。僕はそれを見るなり早く外に出たくなって、とりあえず寝汗を流しにシャワーを浴びることにした。どうせまた汗をかくことは分かっているけど。

僕が実際にプノンペンで宿泊していたホテルの部屋の様子や、窓から眺めた道路の様子を描写しています。
 横がオクファ・テップ・ファン通り、縦がソック・ホック通りだと思われます。

 タイル貼りのバスルームには、トイレが併設されていた。いわゆるユニットバスではない。便器とシャワーと洗面器が、同じスペースに完全に同居している。シャワーを使えば、水しぶきが便座にまで跳ねそうだ。未知の構造にかなり違和感を感じたけど、それが新鮮で、さっきの十字路の光景と合わさって、わくわくしてきた。便座の蓋を閉じ、少し濁った水で汗を流す。歯磨きをどうしよう? この水を口に入れていいものか……。少し考えて、念のため今はやめておくことにした。しょっぱなからお腹を壊してしまっては旅が台無しだ。部屋用にミネラルウォーターを余分に買う必要があるな。
 アメニティのごわごわしたタオルで身体を拭く。髪は放っておけばすぐ乾くだろう。ビニール袋に昨日の下着と汗の沁み込んだTシャツを入れて、服を着た。八時二十分。
 鍵を閉めて、ショルダーバッグを襷(たすき)がけにしながら廊下を歩くと、日本人とすれ違った。こういう場合はあいさつするものなのか、ちょっと迷って、一応目が合ったので、軽く会釈しておいた。 
 階段に出ると、すぐ外は路地で、一度に押し寄せた熱気が喧騒をよりなまめかしくさせる。昨日チェックインした机には女の子が座っていて、鍵を差し出すと、彼女はそれを無言で、めんどくさそうに受け取った。
 路地に出る最後の階段を下り始めると、下から客引きの声が僕に向かって飛んできた。なるほど、階段の下で獲物を待ち構えているのか。だんだん声が増えていく、遠くから走りよってくる者もある。ここで客が掴めるかどうかで、今日一日の稼ぎが違ってくるのだろう、昨夜の空港とはどこか必死さが違う。真っ直ぐ自分に向かってくる切実な声たちに、思わず身がすくんだ。僕は下を向いて、どきどきしながら男たちを無視して通り過ぎた。中には小声で「ハッパ? オンナ?」と言いながらついてくる者がいて、ネットの書き込み通りだと変に感心した。
 ゲストハウスの一階にはオープンカフェがある。中には客引きは入れないらしい。僕はひとまずここに避難することにした。各テーブルには大小様々なバックパックを傍らに置いた旅人たちが座っている。白人が多い。みな薄着で、小汚く、想像していたバックパッカー像と違ってちょっとムサい。僕はひとつだけ空いているテーブルを見つけ、座った。
 オープンカフェといえば聞こえはいいけど、ここはさっき部屋から見た十字路の一角だ。騒音が酷い。柱の上に申し訳程度に設置された扇風機が、定期的に排気ガス臭い熱風を僕に送って来る。
 カフェの奥にはカウンターがあり、各種ツアーや、長距離バスの手配ができるみたいだ。壁には目的地と値段が書いたボードが貼ってある。明日シェムリアップへと発つから、食事を済ませたらチケットを取っておこう。
 保坂先輩の立てたプランをそのまま実行しなくてもよかったかな? とここへきて思った。プノンペンもごちゃごちゃしていて、これはこれで面白そうな気がする、二日ぐらいは居てもよかったと後で後悔しないだろうか?

キャピトル・ゲストハウスから一旦路地に出ると、まず客引きの洗礼が待っています。作中のように怪しい声かけがほとんどで、それだけ悪さをしにくる人が多いということでしょう。ちなみに僕が最後にカンボジアを訪ねたのは2009年なので、今は様変わりしていると思いますが。
 キャピトルの1階はオープンカフェになっていて、僕は毎朝そこで朝食を摂っていました。描写も実際のカフェそのままです。とにかく排気ガス臭くて、でもそれが逆にカンボジアに来たという高揚感をちょっとだけ煽って、独特の雰囲気でした。
 個人的に気に入っている箇所はこちら、

【柱の上に申し訳程度に設置された扇風機が、定期的に排気ガス臭い熱風を僕に送って来る】

普通に描写すると【柱の上に設置された扇風機が定期的に熱風を僕に送ってくる】でいいんですが、【申し訳程度に】で全然役に立ってないこと、【排気ガス臭い】で余計に外のガスの臭いを広げてしまっていることを描写しています。本書が「自分もカンボジアを旅している気分になる」と評されるのは、こうしたちょっとした描写の積み重ねだと思います。

 中年のウェイトレスがテーブルにメニューを置いた。薄汚れた英語のメニューを読んでいると、途端にお腹が空いてきた。脇を通った別のウェイターに、フライド・ライスとアイスコーヒーを指さしで注文し、料理を待っているあいだ、旅の日程をぼんやりと思い浮かべた。
 今日一日プノンペンを観光し、明日の朝、長距離バスでアンコール遺跡観光の拠点となる街、シェムリアップに向かう。到着は昼過ぎ。ボートで川を北上することもできるけど、そちらの方が無駄に時間がかかるらしい。それに、バスの方がゆったりと景色を楽しめそうな気がした。
 シェムリアップには、丸二日間滞在して、三日目の夕方の便で帰国する。遺跡観光には二日半あるけど、それでも駆け足になるらしい。ということは、やっぱり明日はシェムリアップに発たないと……。
 フライドライスとアイスコーヒーが来て、汚れがまだ残っていそうなスプーンを紙ナプキンで拭いてから食べはじめた。調味料が効きすぎていて、ちょっと不味い。夕飯には、ガイドブックに載っているレストランにでも行ってみようか……

(試し読み終了)

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