見出し画像

たたりに二種あり 「祟り」と「断たり」について

神仏に対して何か悪いことをすると「たたり」があると言われます。
漢字では「祟り」と書き、中国語でも「祟」は「良からぬこと」といった同様の意味となっているようです。
さて、この「たたり」について、実は二種類あるのではないかと僕は考えています。
それは「祟り」と「断たり」です。

漢字使用以前の日本語

そもそも日本語は漢字輸入以前から存在し、同じ音を持つ言葉は同一と捉えられていたそうです。
この辺は言霊学をかじれば見えてきます。
例えば「かみ」は「神」であり「上」にも通じるという感覚は現代でもなんとなくあると思います。
「あめ」は「雨」であり、古語では「天」のことです。
雨は天から降ってくるので、だいたい同じものだということが分かります。
だから非常にややこしい。
そこできっと、古代の知識人が漢字を振り分けることで「神」の「かみ」と「上」の「かみ」、「雨」の「あめ」と「天」の「あめ」を使い分けるよう工夫したのでしょう。

本題に戻ります。
「祟り」も同じように、漢字使用以前は「たたり」という日本語であり、それに漢字の「祟」の字を当てたのでしょうが、元々は他の意味があってもおかしくありません。
それを探ってみましょう。
まず「たたり」の「たり」を断定の助動詞の「たり」と考えてみます。
現代語で「だ・である」などの意味です。
すると母体は「た」となります。
つまり「た・たり」です。
ではこの「た」とは何か……
いわゆる「たたり」と関連した意味の「た」を探してみると、「断つ」と考えるのが一番すっきりします。
つまり「祟り」=「断たり」、「祟られる」=「断たれる」ということです。

「たたり」=「祟り」、「断たり」

「たたり」を一度漢字から解放し、日本古来の言葉として改めて考えたとき、「祟り」と「断たり」の二種類の意味が見えてきます。
それぞれを考察してみましょう。

断たり

神仏のご加護が断たれた状態。
ということは、そもそもその神仏とは関係性ができており、ご加護を受けていたということになります。
仮に何らかの神仏に定期的にお参りしている人は、既にそのご加護があると思っていいでしょう。
仮にはっきりとした幸運がなかったとしても、もしかしたら「何もない」ことがご加護であるのかもしれません。
そんな中、突然飽きて足を運ぶのをやめてしまったとしたら……?

仮に対象を神仏ではなく人と考えてみましょう。
お世話になっている人に「はい、幸運手にいれたからもうあの人と会うのはこれで終わり」とする人は相当な恩知らずですよね?
誰かのおかげで幸運を手に入れられたとしたら、その人との関係性はより深くなりますし、感謝は生涯忘れるべきではありません。
それと同じで、神仏にお参りし幸運を手に入れることができたり、なんとなくそれなりに健康で無事に生きていられるのなら、その神仏とは一生の関係性ができたと考えるべきです。
それをたった一回のお礼参り、あるいはそれもせずにいると、いかに神様仏様でもがっかりし、愛想を尽かしてしまうでしょう。
そうしてせっかくのご縁を「断たれ」てしまう……これが「断たり」です。

ただこちらの場合、ご加護を断たれるというだけなので、悪いことが起こるとは限りません。
調子が良かったのが普通に戻ったり、以前はギリギリ綱渡りできたものができなくなるといった程度でしょう。
だから逆に分かり辛いのかもしれません。
以前よくお参りしていた神社仏閣に行かなくなってからなんとなく調子が悪いという人は、既にそこの神仏と関係性ができている可能性があるので、またお参りを再開しましょう。
神仏は基本寛容なので、また行けば簡単に関係性を修復できるはずです。
一度「断たれ」たら二度と許してもらえないというような厳しい神仏はあまりいない気がします。

祟り

こちらはそもそもが何の関係もない神仏あるいは怨霊が災いを為すケース。
怪談などでよくある切ったら「祟り」が発動する木や、初めて訪れた神社仏閣で粗相をして「祟られ」た、といったお話がそれです。
また、「断たり」は良好だった関係性を遮断する、相手にしなくなるといった程度ですが、「祟り」は神仏・怨霊が積極的に災いをもたらします。
事故、病気、金銭トラブル、家族や友人との不和、死などなど、嫌なことが身の回りに起こります。
こちらはお参りや個人的な謝罪程度では済まないケースが多々あるようです。
神社仏閣で粗相をし、明らかに「祟り」を受けていると感じた場合は、その場所に勤めているお坊さんか神主さんに相談し、お祓いなど適切な対応をしてもらいましょう。

呪術としての「断たり」

実は神仏との関係性以外にも、ある種呪術としての「断たり」が存在します。
それが「断ち物」です。

断ち物

「断ち物」とは、心願成就のために自分の好きな何かをあえて断つことを言います。
受験に合格するために好きなお菓子をやめるとか、推しのコンサートは行かない、などなど。
誰でも一度ぐらいはやったことがあるはずです。
実は僕も17歳のときにこの「断ち物」をしたことがあります。
誰に言われたとか、最初から知っていたわけではありませんが。

僕も子供の頃は皆と同じでゲームが大好きで、毎日のようにやっていました。
しかしギターをはじめ、プロを目指すようになると練習時間がもっと必要であることが分かってきました。
そこで自分の生活を見直してみると、ゲームに費やしている時間がかなり多いことに気が付きました。
自分は何になりたいのか、そのために何が必要で何が必要でないかを考えたとき、ゲームの時間が無駄だという結論に達し、そこからゲーム断ちをすることにしました。
幸い一度決めたらできるタイプだったので、17歳でゲームときっぱり縁を切り、その後10年ぐらいはゲームとは無縁の生活をし、まあ結果的にプロのギタリストになっています。

実は興味深いのはここからで、20代後半ぐらいからまたゲームをするようになったのですが、何をやっても身が入らず、なぜかいいところまで来るとリミッターのようなものが発動し、「やーめた」とデータを削除してハードとソフトを売ってしまうということを何度か繰り返しました。
その後、どうやらこれは17歳のとき自分で自分にかけた「断たり」であると認識するようになり、プロになるという心願も成就しているので、この「断たり」は一生受けようと、改めてゲーム断ちをすることにしました。
それが40手前の頃だったと思います。
それ以来一度もゲームはしていません。
これに関してはいい「断たり」と捉えることができます。

まずは「断たり」に遭わないように

個人的に、「祟り」はめったに遭わない気がしますが、「断たり」は誰でもよく遭うと思います。
日本に生まれ育ったなら必ず何らかの神仏と関係性ができているはずです。
せっかくできたその関係性を軽視し、「断た」れてしまうともったいない。
ですので、よくお参りしていた神社仏閣、お願いごとをよくしていた神仏などがあれば、少なくとも行けるうちは定期的にお参りしておきましょう。
もしかしたらそれだけで人生が好転するかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?