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聖地巡礼記チベットへゆく⑩ラモチェ寺にみる信仰とパンチェンラマ

チベット(西蔵)へ聖地巡礼の旅

仏教は長い歴史において
実は今大きな転換期をむかえている

仏教史において後世語り継がれるであろう
時代を僕らは生きている
そして歴史の目撃者となる

ラモチェ寺にみる信仰とパンチェンラマ

拉薩MAP2

西から登るオレンジ色の太陽の光がポタラを照らす

チベットの朝が始まる

朝日を見たあと大通りを西へ歩き
数年前にはなかった正面の大きな広場へ

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広場には
歴代の首席の写真が飾られている

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僕は心の中で
チベット独立は
もう あり得ないと 
この光景を見て感じた

中国の紅い国旗が風になびき揺れている
座主のダライはもう住んでいない

高地のせいなのか太陽の光が強く
町に降り注いでくる

ゆっくり歩いて
ラモチェ寺を目指す
清々しいけど息切れもする

参道に入り巡礼者とすれ違う

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ラモチェ寺は元々
文成公主ぶんせいこうしゅが持参した釈迦牟尼像しゃかむにぞうを祭る為に
建てられ その後色々あり今は釈迦牟尼像しゃかむにぞう
ジョカン寺(大昭寺)へ移された

その後 不動金剛像ふどうこんごうぞうが本尊となる

ジョカン(大昭寺)に比べると
たたずまいは静かで
小さな寺という印象

門から中に入り大きな正面の幕をくぐる

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お経を唱える低い声が聞こえてきた

沢山の僧の低い声の震えが
振動として僕の胸にぶつかる

図太い太鼓の音が耳の鼓膜に当たり
脳の中にまで響きお経のリズムを奏でる

吸い込まれるように中に入る

沢山の僧が座り
お経の暗記に励んでいる

若い層から年老いた僧まで
巡礼者は壁つたいに歩き奥へ流れて行く
1歩踏み入れた時から感じる神聖な空気感

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異世界に迷い込んだ現代人

さっきよりも
重低音のきいた真言の波動が
体に強く伝わる

朱色の袈裟けさまとったチベット僧達
未来があるかないかを考える事もなく
ただただ その生涯を仏道にささげる

そんな姿に少し見とれていたら
年老いた老婆が
左手に108の数珠を転がし
右手にマニ車を回し
奥へ歩いて行く

老婆を追いかけるように奥へ

講堂の裏に当たる場所に不動金剛像がある
金剛像の前で五体投地ごたいとうちで祈りをささげる人達

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金剛像の周りは狭い通路があり
左から右へ1周するように巡礼

チベット仏教では
巡礼道を回ったり
マニ車をクルクル回したり
信仰対象の周りを周ったり
輪廻思想的りんねしそうてきな動きが多い

お経が鳴り響くなか
熱心な信者が
仏に全身全霊で祈る

その姿に心が打たれ
僕は無心で金剛像よりも
熱心な信者を見つめていた

金剛像を一周すると宇宙を
一周したかの気になる

この光景を

この状況を

強い信仰心を

科学では説明できない

なぜ人は信仰するだろうか
僕の思いも輪廻して
さらに知りたくなる


老婆は
クシャクシャになった札を投げ
カラフルなカタ―を投げ
1周する間に何回も祈りをささげる

何を祈っているのか聞いてみたい
僕の心はよこしま

金剛像が見つめる壁に
パンチェン・ラマ十世の写真が飾られていた

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チベット寺を観光すると
よく見かけるから
パンチェン・ラマ十世の写真は
禁止されてない事になる

パンチェン・ラマ十世も
激動の人生を歩んだ人

パンチェン・ラマとは
ゲルク派
2大 転生活仏僧の一人
ダライ・ラマとパンチェン・ラマは
太陽と月で例えられるほどの
なくてはならない関係

その歴史はダライ・ラマ同じく古い

ダライ・ラマ一世とのちになる
ゲンドゥン・ドゥプパが建てた
タルシンポ僧院の座主の称号が
パンチェン・ラマである
転生し称号を受け継いでいく

ダライ・ラマ転生劇には
実は大きな問題がある

それはダライが亡くなり転生児を発見し
政治力や宗教指導者として育つまでに
およそ20年近くの空白の期間が存在する

その間のチベットは
指導者不在に等しい

その期間に
チベット仏教の最高指導者代理を
務めるのがパンチェン・ラマになる

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成熟したパンチェン・ラマが
幼いダライを教育し
指導者として導き教育係的な
役割を補うのが理想である

ダライが成人したり
仏教指導者としての能力を発揮できる
教育を終えると

パンチェン・ラマはダライへ権力を渡す


ダライ・ラマ四世の頃に
パンチェン・ラマも
ゲルク派No,2の地位を不動のものにし
定着していく

しかし太陽と月に例えられるが
自然界のように
計算できる周期で巡り合わない

歴史をみてもわかるように
上手く機能しないものだ

またラマと言えど権力が邪魔をする


パンチェン・ラマは現在十一世で
一つ前の
十世の人生は時代に翻弄ほんろうされる

ダライ・ラマ十四世より2歳年上で
ほぼ同年代

ダライ・ラマ十四世の亡命後

チベットの最高指導者として
パンチェン・ラマは
中国との関係が強くなる

自分の身を守り共産党に利用されつつも
ダライなき後のチベットで奮闘

中国政府に近づきすぎた関係から
チベット社会からは
よく思われていなかった

しかし
1962年に七万言上書ななまんごんじょうがきと呼ばれる文書を提出し
政府批判した


政府に対して批判的な発言から
文革時代には捕まり9年間も
牢獄にも入っている
その間に潰されたタルシンポ僧院も
復帰後に復興させ
チベット人からの評価が高くなったが
文革の後、漢民族の女性と結婚している事が判明

出家したチベット僧の
最高指導者の一人として
結婚していた事はチベット社会に
大きな衝撃となる

結婚を本人が望んだものかは
知る由はないが一女設けている

1989年公の場で演説した内容が
政府側が用意した原稿を無視
その数日後に心筋梗塞により亡くなる
53年宿った肉体を脱ぎ
魂は転生へと向かう

歴代パンチェン・ラマ同様にミイラ化し
タルシンポの霊塔殿に安置された

ダライ・ラマ十四世がチベットを離れてから

彼は彼のやり方でチベットを守ろうとした
だからチベット信者は彼を評価し
多くの寺院で写真を見かけるが 
色々あった人だけに写真を見ると
僕はドキッとする

彼の写真を見るたびに複雑な思いになる

生まれた時代が悪かったのかもしれないが
いずれにせよ
転生した十世の魂を宿った肉体は
どの肉体であれ近い運命を
たどる事になったであろうと思う

その後、寺の周りを1周する

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マニ車が壁沿いにありクルクルと回す
その横で五体投地ごたいとうちでずっと祈りささげる信者

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朝の早い時間でもあり観光客は少ない
地元の人が通い修行僧がいて

信仰の深さをまた知る事になる寺だった

1400年程の歴史がある為
ポタラ宮殿よりも古く

この寺は生きている
ラモチェにそんな印象を持った

多くの寺が破壊され残された寺はやがて
観光地化していく中で修行僧は離れて行った

近代化がさらに信者を減らして
僕らのガイドのように修行僧から
身を引く人も増える
それがチベットの現実でもある


休憩をとりながら朝ごはんを食べる為に
面白い店があるとして行く事にした
尼さんが通うお茶屋

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地元の人や尼僧が立ち寄り食べる場所

古いチベット民家を少し改造し
チベットローカルな朝食をとる

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これからガイドと待ち合わせをし
ポタラ宮殿へ 向かう事に

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中国の人民元50元札の裏に描かれたポタラ宮殿

意識してなかったので僕は改めてみて
もうとっくに中国になっていたんだと
気付かされた


いよいよダライの城へ
仏教史に残る最大の宝庫でもあるポタラ宮殿
建物から感じるオーラは拉薩全体を包み込む

また僕は
徐々に頭が痛くなっていた

実は2週間前から高山病対策で漢方を進められ
飲んでいたから僕は安心していたけど
全く効果がない事を妻に愚痴りだしていた

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妻は3度目の拉薩で今回は高山病になっていない
1回目はキツカッタが3度目なので体が慣れたのかも
といっているので僕を心配しつつも

だから高山病甘く見ないで!って言ったでしょと

高山病にはバター茶が効果あるから飲んで!
そうやって進められるけど
正直 バター茶は おいしくない
独特の味で我慢しても飲みたくない味だ

薬ちゃんと飲んでたの?と疑っている
30日くらい前から飲まないとダメだったんじゃない?
飲むの遅すぎたかもよ

じゃ上海戻れば効果でるわね

そうだね!ってか
もう冗談とか言ってる余裕は
無くなっていた

ラモチェ寺にみる信仰とパンチェンラマ

パンチェン・ラマ十世が亡くなり魂は転生した
ダライ・ラマ十四世は遠く離れた地で
彼の魂を探し求めた

そしてニマという名の少年を見つけ
転生者と承認した

しかし
その少年は突然 消息不明になり
別の少年がパンチェン・ラマ十一世として
政府が発表し
現在のタルシンポ寺の座主には
その彼が座っている

⑪へ続く ポタラ宮殿と偉大なダライ・ラマ五世


チベットへ行くはシリーズでつづっています
是非過去記事からどうぞ!

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↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓聖地巡歴記 西安編 はこちらをどうぞ


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