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支援学校での体育の授業

2021.8.26【74限目】

パラリンピックを見て40年前を振り返りました

私は40年ほど前に4年間勤務した支援学校(その当時は、養護学校でした。)は、入院している児童が、病院の中の学校へ通う院内学校でした。子どもたち全員が入院していて、障害を改善する為の治療や訓練をしながら病院(同じ建物)からの登校です。

障害といっても、肢体不自由などの身体障害の子供が多く、中には障害が重複している子どももいました。一人一人が異なった障害を持っている子どもたちでした。


障害を持った子どもたちを前にして

私は体育の教師として、健常児の生徒や学生を中学校や高校で指導してきたので、動けるのが当たり前の授業をしてきました。支援学校に勤務して、子どもたち一人一人の障害を知り、個性や能力に応じて教育する難しさに戸惑いました。

小学部の3年生を担任していましたが、学習活動で個に応じた教材を準備することが大変でした。特に、体育の授業では、一人一人の運動する能力や、障害の程度、日常生活での動作能力などを判断し、主治医に障害の程度を聞き、どこまで体を動かしていいかを教えてもらって、体育の授業をすすめていく必要がありました。


支援学校での子どもたち

私のクラスに、ペルテス病の男の子たちがいました。この病気は小児の大腿骨頭壊死で5歳~7歳ぐらいの男児に多く、原因は現在もまだはっきりしていませんが、壊死部の修復には約2年~3年はかかります。一般的には身長が低く、活発で、元気な男の子に多いとされています。

治療は2年~3年ほど足を開いた状態で、装具を装着し、足を開いたまま保持し、歩行しない装具を付けていました。移動は車輪付きのベッド(ストレッチャー)でうつ伏せになり、手で車輪を回して進みます。その子どもたちは、元気でよく動き,運動能力も高く、体育は好きでした。

そのほかの子供は、車いすで移動し、車いすを使わないときは、這って移動する子、何かにつかまって歩く子どもたちでした。


体育の授業で大切にしたこと

中学部の体育の先生といつも話したことは、みんなが楽しく運動が出来て、その子に応じた運動量を保障してやりたいという事でした。

よく授業でしていたのは、パラリンピックのゴールボールや車いすラグビーのようなゲームをしていました。テニスコートのエンドラインがゴールで車いすでも止められるように、ボールを転がしてゴールをする。これはラインサッカーから考えました。ボールはドッジボールを使用しました。

元気のよい子はボールをすぐにキャッチし、ゴール出来ますが、チーム全員にボールを回さないと、ゴールが出来ないルールを作り、誰もがゲームに参加できるようにしました。

車椅子で、早い動作が出来ない子がシュートすると、その子の障害に応じて、2・3・4点入るようにしました。みんながそれぞれの出来ることで、運動量も保証し、楽しんでいたと思います。


パラリンピックを見て

私が、今のパラリンピックのような、沢山の競技があり、また装具も各自の障害に応じて作成できる事などを知っていたら、40年前の子どもたちはもっと外に向かって、目標を持って、希望を持って運動が出来たのではないかと思っています。

今のパラリンピックが想像できないほど、40年前は障害を持った人が、社会進出の機会も少なく、スポーツと関わる機会が少ない世の中だったように思います。

障害者のスポーツの祭典と呼ばれるパラリンピックを見て、誰もが個性や能力を発揮し活躍する場を与えられ、理解しあうことで、共生社会を実現することが出来、社会の中にあるバリアを減らしていくことにもつながると、昨日の競技で、ゴールボールや車椅子ラグビーを見て思いました。

激しい動きの中で、どれだけの練習を重ねて技を磨いてこられたかを想うと、一つ一つの動きに感動しました。また選手の人達をサポートしている人たちにも感動しました。

パラリンピックの開会式では、障害があっても、一人ひとりが大空へ羽ばたく翼を持っている。それを信じて、勇気を出して飛び出そうという趣旨のストーリーで進んでいき、片翼の少女がみんなの助けや後押しで、大空へ羽ばたいていきました。

パラアスリートの人たちも色々な人に支えられて、この夢の舞台に立っていると思います。私はそれを見てパラリンピックが開催された意義を見たように思いました。


楽しみにしている競技

これから始まる、5人制サッカー・アーチェリー・シッティングバレーボール・テコンドー・柔道・バドミントン・ボッチャ・陸上競技など、まだまだ沢山の競技がありますが楽しみです。

特に、ボッチャは40年前の子どもたちにさせてあげたかったなあと思います。ボッチャは、脳性麻痺やそれと同じぐらい手足が動かせない人のために考えられたスポーツで、目標になる白いボール(ジャックボール)に向かって、赤と青のボールを6個ずつ投げたり、転がしたりして、白いボールにどれだけ近づけられるかを競う競技です。

40年前のM君やKちゃん、S君、T君、K君、N君たちがボールを投げている姿を想像すると嬉しくなります。


支援学校で学んだこと

私が支援学校で先生方や子どもたちから教わったことは、小学校に転勤してからも、私の教師としての中心軸にあったように思えます。

子どもたち一人ひとり違います。その違いを正しく理解し、個性を大切にして、サポートが必要な時は少し手を貸し、子どもが育っていくのを見守っていくことが大切な事だと教えてもらいました。

パラリンピックが始まって40年前に出会った沢山の人たちを思い出し懐かしい時間を楽しんでいます。

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【編集担当より】
一番最初の母親の仕事の記憶は、養護学校(支援学校)の先生でした。小学校低学年の頃だったでしょうか。

母親の職場に何度か連れられていったことを覚えています。生徒さんと相撲を取ったように思います。障害を持つ方と接することもあまりなく、少し上のお兄さんが股関節を固定した器具をつけて生活していることと、その屈託のない笑顔に、あまり良い表現ではないかもしれませんが、どういった感情を顔に出すべきなのかわからなかったことを覚えています。

仕事場での母親は、いつも以上に声が大きいかったように思った気がします。ただ、母親の仕事は、どうやらたいへんそうだと感じたのが思い出されます。あと、生徒さんと楽しそうに話しているのをみて、充分に愛情を注ぎ、信頼され、この仕事が好きなんだなと子供ながらに思ったように思います。

小学校で働くようになってからも、手伝いで何度か小学校にも行きました(行かされました笑)が、幼い頃に見た養護学校で働いてる姿が最も印象的で、そのイメージが焼き付いています。このnoteを始めた一つの理由も、そのころの母親の働く姿をお見せしたかったのかもしれません。

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