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【試し読み】『「死にたい」とつぶやく』「死にたい」の声に私たちはどう向き合うべきか? 

2017年に発覚し、その社会的影響力からTwitterの利用規約変更にもつながった座間9人殺害事件。本事件に関する裁判は被告人の死刑確定をもって終了し、Twitterの利用規約が変わった後も、SNS に自殺願望を書き込むことを発端とした事件は発生し続けています。なぜ、家族や友人などの近しい人物に相談するのではなく、SNSで「死にたい」とつぶやくのか? 何を求めて書き込むのか? 
当社12月新刊『「死にたい」とつぶやく』は、日本社会に潜む希死念慮の問題を社会学の視点から読み解いていきます。

今回は、著者が、座間9人殺害事件をきっかけとして、希死念慮の問題に取り組む過程を分かりやすく解説した、本書第1章第1節部分を公開いたします。ぜひご覧いただければ幸いです。

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第1章 座間9人殺害事件を考える

1 事件への問い

端緒
 2017年10月31日、神奈川県座間市のとあるアパートの一室で、複数の遺体が発見されたという事件の一報がニュース番組を駆けめぐった。被害者を殺害し、遺体を自室に保管していたのは、職業不詳で27歳(逮捕時)の男性だという。同日のうちに、遺体は9名分あり、切断されてクーラーボックスに保管されていたこと、それらの身体的特徴から、被害者は女性8名と男性1名であることなどの詳細が報じられてゆく(註1)。日本中を震撼させた、「座間9人殺害事件」が発覚した日のことである。  
 これだけでも、日本の犯罪史に残る異様な事件だと言えるのだが、しかし、この事件の最大の特徴は、犯人である白石隆浩が供述する、殺人のプロセスにある。詳細についてはこれから述べるが、白石はSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の一種であるTwitter を使って、自殺を希望する書き込みをしていた若い女性に対して一緒に死ぬことを持ちかけたうえで誘い出し、アパートの自室に招き入れたうえで殺害するという行為を繰り返していたのだという(註2) 。  
 この一連の殺人のプロセスは、人びとに対して、強い衝撃を与えたようだ。実際に、2017年11月の新聞には、連日のように、この事件に関する記事が掲載されている。なぜ、こんな惨い事件が起こってしまったのか。事件は防ぐことはできなかったのか。記事に書かれた問いかけは、多くの人が事件に対して覚えたであろう、不安や恐怖、怒りや悲しみといった感情を代弁しているかのようだ。そして、私もまた、一個人としては、事件に対してそのような感情を覚えた人間の一人であることを、最初に表明しておきたい。

失踪の社会学者として  
 だが、当時の私はこの事件によって、別の意味でも、大きな衝撃を受けることになる。なぜなら、私は人間の失踪をテーマに研究を行っている研究者――社会学の視点を標榜して研究活動を行う者を社会学者と言ってよいなら、私もそうなるだろう――だからである。さらに、この事件が発覚したのは、私が拙著『失踪の社会学』という本を出版した直後――わずか10日後――のことだった(註3) 。
 といっても、ほとんどの読者にとっては、これでは説明不足だと思われる。仮に私が、猟奇的な殺人事件を専門とする犯罪心理学者であれば、研究と今回の事件との関連性は明らかだろう。だが、失踪と座間九人殺害事件に、何の関係があるというのか。ここで、手前味噌になってしまうが、ごく簡単に、拙著の内容を紹介しておきたい。 『失踪の社会学』は、私にとっては初めての単著で、社会問題/現象としての失踪をテーマとした専門書である。この本では、失踪は「人が家族や集団から消え去り、長期的に連絡が取れずに所在も不明な状態が継続する現象」を指している。
 このように説明すると、私が「そのような現象が引き起こす問題をいかに解決するか」を研究していると思われるのが普通だろう。実際に、同書でも、失踪者の家族たちや、家族を支援するNPOへの調査を通して、家族が失踪するという、親しい者が生きているか死んでいるかさえもわからないような不確実な状況になることの苦しみが、一つのテーマとなっている。
 だが、同書では、そのような失踪の孕む問題性に細心の注意を払いつつも、同時に、失踪を「悪いこと」だと考えてしまう私たちの価値観それ自体を問いの対象としていて、そのような考え方の相対化を図っている。最終的に、私は同書で、稚拙な議論ながらも、失踪する行為が、自殺の代わりになる可能性を提唱している。よりわかりやすく言えば、死にたいほど辛いとき、その原因(の一部)になっている人間関係から無条件で脱出することが、ときには許されても良いのではないか、という提案だ。その裏には、失踪のような行為が、現代社会においてあらためて求められている節がある、という洞察もあった。
 たしかに、行為としての失踪を部分的に肯定するならば、自殺を考えていたような者は、それによって一時的に、苦痛から逃げることができるかもしれない。だが、当然のことながら、家族の外部が安全であるとは限らない。家出した先で、凶悪な犯罪者に遭遇してしまうかもしれない。まさに、座間9人殺害事件の白石のような人物に、だ。あるいは、そのような危険な人物を避け続けた結果、どこにも行く当てがなく、結局は死を選んでしまうこともあるだろう。行為としての失踪を肯定することは、人を、そのようなリスクに晒すことになるのではないか。
 座間9人殺害事件の一報は、失踪の社会学者としての私に、このような問題を突き付けることになった。とりあえずここでは、私にとって座間事件は、失踪のような行為が現代において求められているという洞察を裏付けるものである-−そうでなければ、「死にたい」とSNSで言及する若者たちがこうも簡単に白石に誘い出されるとは考えづらいから――と同時に、失踪を肯定するというアイデアの、いわばネガの側面を、極大化して示すような事件であったということを、述べておこう。  

SNS規制という問題
 ところで私は、インターネット・テレビ放送局であるAbemaTV の報道番組「Abema Prime」の、「座間9人殺害事件で考える若者の失踪とネガティブな裏垢投稿」と題された特集回に、専門家として出演したことがある(註4)。この番組のなかで、当時の野田聖子総務大臣が、事件を受けて、「SNS独自で努力しているが、そういうことはしっかり取り組んでいただければと思う」と、SNSのサービス提供会社に何らかの措置を促すようなコメントをしたことが紹介された。この点に対する見解が求められた私は、次のような主旨の発言を行った。

  SNSはとても便利で楽しいもの。私も日常的に使用しているし、ちょっと心が弱っている人や悩みを抱えている人にとっては、同じような悩みを抱えている人と簡単に繫がることができるなどメリットは多い。しかし、メリットはリスクと表裏一体。本人が望んでいない、思ってもいなかったような人と繫がる機会を与えてしまうこともある。便利だからこそ、逆にリスクはなかなか消えない。それに対応するために、ある種の公的な介入、第三者による介入が必要という点には同意する(註5)。

   この私のコメントだが、どうだろうか。今となっては、その内容の浅薄さに、我ながら呆れてしまう。
 たしかに、SNSに何らかの規制をかければ、「死にたい」若者たちの危険な行動を制限することができるかもしれないし、仮に実際上の効果がなかったとしても、彼/彼女らを心配する親や家族たちに一時の安寧をもたらすことぐらいは可能かもしれない。だがもし、それによって、彼/彼女らがSNSによって確保していた逃げ場がなくなってしまったら、彼/彼女らはどうなってしまうのだろうか。
 座間9人殺害事件の話に置き換えてみてもよい。仮に、何らかの「上手い」SNSの規制手段が存在したのだとしたら、被害に遭った女性たちは、白石と会うことも、殺されることもなかったかもしれない。たしかに、女性たちが殺人鬼に殺されることなど、あってはならないことだ。だが、その場合に、彼女たちをSNSへと向かわせた「何か」、あるいは、彼女たちを白石の誘いに乗らせた「何か」は解消せずに残ることになるだろう(註6)。
 以上の問題に言及せずに、ほぼ無条件でSNSの規制に賛同してしまったのが、私のコメントだったわけである。このSNS規制の問題と、先に述べた失踪の是非をめぐる問題は、いわばパラレルな関係にある。

  事件が可能になったという謎
 おそらく、SNSの規制は、この事件によって露(あらわ)になった問題への対処療法に過ぎないだろう。というのも、今回の事件で、被害者たちを白石の誘いへと乗らせた「何か」は、SNSというルートを閉じて抑圧したところで、また別のルートを通して回帰してくるかもしれないからだ。Twitter が、10年前の日本ではまだ普及していなかったように、きっと10年後には、また新しいメディアが登場していることだろう。そうして新規開拓されたルートで、同じような事件を防ぐには――言い換えれば、問題への根本的な対策を図るためには――その「何か」があきらかにされなければならないはずだ。  
 だが、その「何か」とはどのような類のものなのだろうか。あるいは、そもそもこの事件の原因となるような特別な「何か」などは存在していなくて、事件は凶悪な犯人と若い女性の被害者たちが「たまたま」めぐりあったことで起こったに過ぎないのだろうか。このような疑問が生じるのだとしたら、それは、先ほどから示唆している本書の問いの焦点が、まだ少しぼやけたままだからであろう。一般的に、思索の成否は、「問いをどのように設定するか」に強く左右される。そこで、問いをもう少し具体的な形にするために、次のように考えてみたい。
 先述したように、座間9人殺害事件は、発覚からしばらくのあいだは、新聞やテレビの事件報道を独占するほどの注目を集めたという経緯がある。これは、犯人が被害者たちの遺体を解体し、長期にわたり部屋に保管していたという猟奇性もさることながら、やはりTwitter を介した犯行の手口と、殺害された被害者の人数の多さによるところが大きいように思われる。
 このような一連の犯行を、白石が単独で行ったということは、多くの人にとってはにわかに信じがたかったようだ。実際に、当初は複数犯である可能性が指摘されたり、インターネット上では「事件の背後に闇の組織が関係している」といった、ともすれば陰謀論めいた説が語られたりしたほどである。後に白石は、座間9人殺害事件は、殺害から遺体の遺棄に至るまで、自身による単独の犯行であったと供述している。また、現在のところ、白石以外の人物や組織が共犯として浮上しているという報道もない。
 だが、事件が白石による単独の犯行であるならば、次のように洞察するのが自然だろう。一般的に言って、男性が若い女性を自室に招き入れることは、たとえ相手の女性が精神的に弱っていたとしても、それほど簡単なことではないはずだ。にもかかわらず、白石は単独で、2ヶ月という短期間のうちに、8人もの女性を次々に、しかも同じような手口で部屋に招き、殺害をなしえたのだ。
 このような、一見すると不可能に思える事件が可能になったことを踏まえると、そこにはやはり、白石の手口の巧妙さだけでは説明しきれないような、事件を可能にした何らかのメカニズムが働いていたと見るのが自然ではないだろうか。  

本章の問い
 座間9人殺害事件という、およそ起こりそうもない事件が実際に起こってしまったということ自体が、私たちに、その要因となった「何か」について考えることを要請する。だから、本章ではあえて、次のような問いを立ててみることにしたい。すなわち、座間9人殺害事件という最悪の事件が、一体なぜ可能になってしまったのだろうか、と。このように問うことは、今後、座間9人殺害事件に類する出来事を生じさせないための方途にも繫がるはずだ。
 もちろん、白石が連続殺人をなしえた理由として、「白石が、被害者が「死にたい」という願望をTwitter に書く若い女性を狙い続けたからだ」と答えるだけでは、不十分である。それは一つの理由ではあるものの、私たちにとっては、考察の前提となる条件にすぎない。また、理由と言っても、白石の腕力が被害者たちを殺害するに足るほど強かったという類の理由を検討したいわけではない。筆者はいちおう社会学徒の末端なので、ある種の社会的な関係性を――少なくとも被害者と白石との二者関係を、また、できればより広い社会的コンテクストを背景とした三者以上の関係性を――重視することになる。そのような観点から、なぜそのような女性たちが、白石のような人物に誘引されがちであるのか、そして、白石はどのような人物として彼女たちの前に現れていたのか、を分析してみたいのだ(註7)。
 ところで、このように座間9人殺害事件の背後のメカニズムを問うことは、この事件が、現代社会においてどのような意味で特殊な出来事なのかを考える契機にもなるだろう。たしかに、一人の人間が9人もの人物を殺害したという点では、座間9人殺害事件はきわめて稀な出来事であったに違いない。だが、「死にたい」とTwitter に書く女性が、Twitter などのSNSを始めとしたインターネットを介して異性と出会うという出来事は、そこまで珍しいことなのだろうか。いや、そうではない(註8)。私たちは、座間9人殺害事件について考えることで、「死にたい」とインターネット上に書き込むような者たちが、あるタイプの他者に連れ出されがちであるという、より一般的な傾向を見出すことが可能かもしれない。
 仮にそのような傾向が存在するのだとしたら、おそらくそれは、インターネットを介したトラブルや性犯罪等の一因となっているはずだ。しかし、だからといって、そのような事態を頭ごなしに禁止するだけでは、筆者が先に陥ってしまった、SNS規制論から何も変わっていないことになるだろう。その先に進めるかどうかは、本書の内容次第である。

註1 「アパート 切断9遺体 神奈川・座間 住人27歳男 逮捕 遺棄容疑」(『読売新聞』2017年10月31日付、東京夕刊)。
註2 「座間9遺体 『死にたい人いなかった』容疑者供述 室内に血液反応」(『読売新聞』2017年11月5日付、東京朝刊)。
註3 中森弘樹、『失踪の社会学――親密性と責任をめぐる試論』(慶應義塾大学出版会、2017年)。
註4 この特集の詳細については、『AbemaTIMES』の記事「座間9人殺害事件で考える若者の失踪とネガティブな裏垢投稿」(https://abematimes.com/posts/3194317)に記録されている。
註5 前掲「座間9遺体事件で考える若者の失踪とネガティブな裏垢投稿」。
註6 座間9人殺害事件の被害者のなかには、女性だけではなく男性一人も含まれている。男性に関しては、他の女性8人とは異なる経緯で殺害されているので、ここでの問いには含まなかったが、もちろん、この事件を理解するためには、この男性被害者についても考慮する必要がある。
註7 被害者たちはなぜ白石に引き寄せられたのか――このように問うことの重要性は、渋井哲也も座間9人殺害事件について扱ったルポで強調している。渋井哲也『ルポ 座間9人殺害事件――被害者はなぜ引き寄せられたのか』(光文社、2022年)。
註8 座間9人殺害事件と類似の事件や、いわゆる「ネットナンパ」と呼ばれる行為の現状については、前掲『ルポ 座間9人殺害事件』を参照のこと。

(続きは本書にて)

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【著者プロフィール】
中森 弘樹(なかもり ひろき)
立教大学文学部/21世紀社会デザイン研究科准教授
1985年生まれ。2015年、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。
主な著書に『失踪の社会学――親密性と責任をめぐる試論』(慶應義塾大学出版会、2017年)。同書により、日本社会学会第17回奨励賞(著書の部)、および、日本社会病理学会学術奨励賞(出版奨励賞)を受賞。

【目次】
序 論 ある2人の対話から

第1章 座間9人殺害事件を考える
1 事件への問い
2 研究の方法と倫理的配慮
3 事件の肖像
4 「私がしたことは殺人です」
5 「死にたい」という言動と親密圏をめぐる省察
6 救済の悪用

第2章 Twitterの「死にたい」を考える
1 「死にたい」の海へ
2 「死にたい」とインターネット
3 この章で行うこと――テキストマイニング
4 「死にたい」はTwitterでどのように語られているのか
5 「死にたい」とつぶやくユーザーのプロフィール分析
6 私だけのアジール

第3章 「死にたい」をシェアする暮らしを考える
1 シェアハウスの可能性
2 シェアハウスをぶらぶらする
3 互いの生/生命に配慮しあう死にたがりたち――シェアハウスAについて
4 人が死なないシェアハウス――シェアハウスBについて
5 一時的な居場所、擬制的家族

終 章 親密圏のなかで「死にたい」を〈リテラル〉に捉える


あとがき

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