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令和初日の福島駅で、消えた旅館とソフトクリーム / 映画『FUKUSHIMA DAY』(3.11に寄せて)

出会いのきっかけは「カメラを止めるな!」。劇中で気になった役者さんの経歴を調べていると、初主演作の情報に辿りついた。

それまで自主映画というものを意識して観たこともなく、「映画=円盤化される2時間の映像」という認識だった私にとって、「観ることができない作品」の存在は信じ難いものだった。どうにかして観る術が無いかとせめてノベライズを購入し、桜井亜美監督のTwitterをフォローし、映像化の情報探しに明け暮れていた。推したい役者さんの初主演作であることは勿論、あらすじが自分にとって見過ごせないものだったから。他人にも当事者にもなれなかった、あの日々の記憶に囚われたのだ。

『FUKUSHIMA DAY』あらすじ

『FUKUSHIMA DAY』
東日本大震災により福島第一原子力発電所で事故が起こったことに危機を感じた福島県出身の将太(長屋和彰)は、福島で生活する妹(深谷麗奈)に東京に来るよう説得を試みる。しかし、妹は地元から離れる意思がない。さらに両親は放射能問題に対する危機意識に欠けており、少しずつ家族との関係が気まずくなってしまう。

2011年3月11日に起こった東日本大震災後の福島県を舞台に、放射能問題に揺れる人々を描いたヒューマンドラマ。福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散などさまざまな問題を抱える中で、それでも福島で生活していく人々を映し出す。『friends after 3.11【劇場版】』の岩井俊二がプロデュースし、岩井と『虹の女神 Rainbow Song』に携わった桜井亜美がメガホンを取る。福島県をはじめ日本中に深刻なダメージをもたらした放射能問題に、今一度再考を迫られる。

「東京で暮らす東北出身の主人公が、現地で暮らす妹を心配する」ストーリーを絶対に観たいと思った。しかもプロデュースしたのが、仙台出身の岩井俊二監督。

物心ついてから地元以外で過ごす初めての春

震災当時、私は生まれ育った東北の地を離れ東京の大学に通っていた。発生当時は自宅におり、尋常ではない揺れに死すら覚悟したが、長い恐怖が落ち着いた所で見せつけられた衝撃的な映像に慌てて実家へ連絡を入れた。妹だけがなかなか安否を掴めず気が気ではなかった(無事が判明した時は思わず泣いた)。

それから数年、東北の出身だと言うと二言目には「震災は大丈夫だったんですか?」と聞かれる日々が続いた。善意と解っていながら、同時に無神経ではないかと腹が立った。大丈夫じゃなかったらどうするんだろう? 家族や親戚が死にました、とか伝えたら受け止めてくれるのだろうか?(関わりこそなかったが歳の近い母校の後輩が命を失くしたと後に知った) 大丈夫じゃなかったら東京に居ると思う? 心配の気持ちも伝わるからこそ、通じ合えないもどかしさに心を揺さぶられた。

ただ、どんなことを思ったとしても私は当事者にはなり得ず、かと言って全く無関係な他人にもなりきれず、苦しさを勝手に覚える暮らしが続いた。家族は寒さの続く東北の地で1ヶ月もガスが通らず自宅のお風呂に入れない辛さを味わっていたのに(オール電化住宅=最強説を唱えたものだ)私は一瞬の不便さや物の不足、計画停電等があったとしても、学校に通える日常がすぐ戻ってきた。現地での被災もしていないが私の帰る場所は確実にそこで、当時は10代の終盤、どうしたら良いのか本当に解らなかった。

映画『FUKUSHIMA  DAY』の存在を知った2018年は奇しくも仕事の都合で東北の地に戻ってきた年だった。帰ってきて改めて感じていたのは、未だ復興途上の地もある一方で、街の中心部はほぼ全くと言っていいほど震災の影が無いということ。勿論、細部にはあるのかもしれないし、乗り越えて生きてきた人々に敬意を表するばかりだが、日々を過ごしている限り震災は「大変だった過去の出来事」として消化されているように思えた。繰り返すがそれは自然ではなく自助努力であり、いつまでもそこに囚われていてはいけないと奮闘した結果であるのだが、今なお爪痕の残る地とは確実に距離感があり「復興」の言葉は形骸化しているように思えた。

運命なんてものは基本こじつけで思い込みなのだけど、観たいと言う理由が十分すぎる程にあると思えた。

上映会をやれませんか、と深夜に送ったメッセージ

いま思うと大胆だった自分に呆れてしまうのだけど、この日の出来事が迷う背中を押してくれた。

長屋さんの出演作『あるいは、とても小さな戦争の音』上映会に伺ったのは2019年3月9日。ノベライズをお見せして、観たい気持ちをお伝えしつつサインして頂いた。その写真とコメントを3月11日にツイートすると、桜井亜美監督が反応してくださった。これで終わりで良いのかな?と自問自答を繰り返し、2日後の深夜、桜井監督のHPのお問い合わせフォームから駄目元でメッセージを綴り送信。上映会の相談は可能ですか、何か観る手立ては無いでしょうか…と。自分が観たい気持ちは勿論、いろんな人に観てもらい改めて震災のことを考える機会があればと思い、DVDとかじゃなく上映会というイベントをやれないかと伝えた。

なんと監督からお返事を頂き、素晴らしいスピードで上映会の開催が決まっていった。2019年4月27日、平成最後の土曜日。相談から僅か1ヶ月半。さらに、カメ止めで長屋さんと共演された大沢真一郎さん・市原洋さんをゲストに迎え、トークショーと新作の演劇も決定。半年も燻らせていた気持ちの思わぬ行き先に感激した。スタッフの一人として関わらせてもらえることになった。

世に出して拡げるまでがおしごと

イベントをやるならパブリシティを獲得し拡めるのが広報担当の仕事。どんな媒体なら取り上げてくれるだろうかと考えた。テレビの大きさではない。時間の無い中、1ヶ所だけだとしたら、ラジオではインパクトが弱い(複数なら別の話)。新聞かwebのスピード感が良い。では、どの切り口なら興味を持ってもらえるか? 考えた末に辿り着いたのが日刊スポーツ記者の村上さんだった。カメ止め関連の記事を多数執筆し、作品は勿論、作り手やキャストに思い入れのある方だと傍目から感じていた。

突然フォローし、いいねをつけまくる私に、村上さんは「誰だこいつ」と思いながらも(笑)何かを感じてフォローを返してくださった。すかさずDMで開催の経緯と取材のお願いをした。奇しくも彼はカメ止めのみならず、震災について追いかけ続けている方で、お忙しい中で辛抱強く私の話に耳を傾けてくださった。途中で桜井監督ともお繋ぎした。当日まで取材に行けるかわかりませんよと、当然のお言葉を頂いていたが、彼は現場に来て即日記事をupしてくださった。

さらに、平成から令和に変わりGW明けの月曜日、紙面にまで大きく取り上げてくださった。

また「カメ止めの脚本をキャストと一緒に読む」という神イベントを開催してくれたシナリオクラブの竹森さんも、アツいブログを更新してくださった。

沢山のご縁が重なった出逢いで紡がれた一連の出来事。

再上映することで、震災について再度想いを馳せる機会にしたかったし、こういう機会を設ける人が周りに居るということで長屋さんたちの別の仕事に繋がったら良いなとも思った。後者は解らないけど前者は、少なくとも当日に足を運んでくださった方々には伝わったのかなと思う。内容は前半がドラマ、後半はドキュメンタリー調。元々はドキュメンタリーで撮るはずが、撮影中に「妹」さんが口を閉ざしてしまい、ドラマとして撮り直したのだという。生々しい当時の福島をノンフィクションとフィクションの両方で遺している貴重な映像作品だと感じた。

令和初日の福島駅で、消えた旅館とソフトクリーム

上映会はGW初日の4月27日に催された。令和初日の5月1日、折角なので福島に行ってみようと思い立った。当時ここに居た人を、当時の私は知らなかったのに、今その人をきっかけにここに居る。不思議でたまらない気持ちだった。

降り立った福島駅は映画の中と少し様子が変わっていて、ロケ地を少しずつ歩いて回る。そのままであることに感動したり、閉まった店に寂しさを覚えたり。

印象的だったのは、阿武隈川の橋。主人公が夢の象徴を捨てるシーン、橋の上の同じ場所に立ち、感慨にふけりながらも足りないものに気づく。旅館が無くなっているのだ。

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かたや、小さなソフトクリーム屋さんの店主は8年前の撮影を憶えていて、当時の様子を懐かしそうに教えてくれた。取り扱いをやめてしまったという最中の代わりに頼んだソフトクリーム。つめたさを味わいながら心をあたためてもらった。

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無くなったものもあれば変わらないものもあるのだと、当たり前のことを想いながら福島を後にした。何ができる訳でもないが、また桜の咲く頃にでも訪れてみたいと思っている。

あの日々の話から、そのつぎの話へ

東京で再上映の次は、東北の地で初上映を。次の大きな夢に向かって、色々と手立てを考えてきた。結論、ただ単にやるだけなら、小さなイベントスペースもメジャーな劇場もお金を出せば借りられる。でもそこに意味が無い限り、観てほしい人たちに観てもらうことは出来ない。沢山の理由づけを探して、これかな?というものも見つけはしたのだけど、決定しかねるまま現在のまるで世界恐慌の様な状態に突入してしまった。せっかく岩井俊二監督が初めて仙台でロケをした『ラストレター』も上映される年だったのだが、無理やりねじ込んでも結局中止に追いやられていた気がするし、複雑な気持ちが残っている。人の集まるイベントが自粛を求められ、3.11の式典関係も多くが中止になり、献花台だけが置かれたりした。それでも様々な地で「黙祷」の時間があり、静まり返る数秒の時間があった日だった。

来年は震災発生から10年、本当の一区切りになるであろう年までに、何かがまたできればと願っているし、再び数多の縁が繋がれば良いなと思っている。まだ暫くは東北の地で生きていくし、私のルーツは永遠に此処にあるのだから。

取り留めのない文章を読んでくださった貴方に、心からの感謝を。

*『FUKUSHIMA  DAY』関連


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