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毎朝、セルフコンパッション、発動!

現在の私は、母と母の同居人と三人で暮らしている。
その暮らしは、正直かなり厳しい。
なぜなら、母と折り合いがつかないからだ。
noteの投稿がほぼ毎日このような言葉で始まるのもそろそろ飽きた。
しかし、セルフ・コンパッションを語るうえで欠かせない情報であり、私が落ち込みやすいことは事実だ。

私の気分が毎日上がったり下がったり、躁と鬱の状態を繰り返している事実は、私にコンパッションが必要な理由を如実に表している。
要するに、一週間のうちに、下手したら一日のうちに何度も「人生って、楽しい!私って素晴らしい!」と何でもできる気分になる無双状態と、「無理だ、誰にも会いたくない。なんで私はこんなにつらい人生にしてしまったんだ、もう生きていけない。」と落ち込み沼にはまって何もできなくなる(ような錯覚に陥る)低迷状態を行き来していて、情緒が安定しないことに更に自己嫌悪に陥っていく。そんな状態で生きていくのは本当にマジで正直キツイ。

分かりやすく躁・鬱の状態を繰り返していると書いたが、ただの状態であって、名前を付けるほどのものじゃない。上記のように、何もできなくなる(ような錯覚に陥る)と判断できることが、まず客観視ができる程度の症状だということを表している。
だが実は、その客観視も技術であり、できるようになったのも最近で、心理療法ACTのおかげだということを伝えたい。


もっと躁鬱の症状に困っていて大変な人は世の中にたくさんいると思うし、普段のわたしは自分がそういうアップダウンが激しい情緒を持ち合わせていることも忘れているくらいだ。かといって相変わらず人生のキツさを持ち合わせて生きていることは変わらない。

とにかく
今日も、今朝から憂鬱だった。
昨日挑戦してみたことに対して、辞めておけばよかったかなとナイーブになってしまう自分もいたし、
目が覚めた時間が9時過ぎで、またヨガに行けなかったことを悔やむ自分もいた。
ヨガに行けなくなってから2か月ほど経つが、今でも毎晩「明日は行きたい…!」と思って眠りにつき、翌朝目が覚めた時には到底行く気持ちになれずに結局は行かない選択をする。
未だに毎日このループから抜け出せない自分に腹が立つし、かといって人生にヨガという存在が一度組み込まれてからはそれを手放すこともできない事実に落ち込むのだ。

結局のところ、理想の自分になれていないことがしんどいし、他者がどう思っているのだろうかと想像して自己嫌悪に陥って辛くなる。

あのかれはかのじょはあのしんゆうはこれからであうかもしれないあのひとはわたしのことをどうおもっているのか。ほんとうのわたしをしったらきらわれるんだろうな、あのひともわたしのことをやばいやつだとおもっているかられんらくしないんだろうな。。

こんな考えが浮かんでくることもざらだ。今朝も家を出て歩きながら、そんなことを考えて辛くなっていた。

極めつけは、母から、私の欠点について朝一番から語られたことだ。詳しく何を言われたのかはっきりとした言葉はもう頭の中に残っていないが、私もつい声を荒げてしまい、一気に元気がなくなったことを覚えている。
せっかくのいいお天気で、出かける準備をささっと終わらせ、いつものスターバックスで今日の仕事に取り掛かろうと妄想を繰り広げていたのに。
お出かけの格好のままベッドに横たわり、30分間ずっとレペゼンDJふぉいのショート動画と馬の削蹄のYoutube動画を垂れ流しにしたまま、無の状態を過ごしていた。

幸い、
『ああなんて生きづらい人なんだ、大変だなあ自分。』と自分が鬱の状態であることに気づき、自分自身を労わるよう脳をシフトチェンジすることができた。
明るくて元気いっぱいでいつも笑顔な私を見ている方が私の話を読むと信じられないかもしれないが、頭の中ではいつもこの無用な押し問答が繰り広げられている。

近頃気がついたことなのだが、どうやら私にはふたりの自分がいるらしい。
元気いっぱいで希望や愛溢れる自分と、人生の全ての不幸を抱えた爆弾みたいな顔をした自分。
今日は、そのダークな面の自分の存在をはっきりと知覚した。
その存在を否定するのではなく、もうひとりの自分と共に同居させてあげる感覚を練習する。
書くということを始めてから、その存在たちがはっきりと言葉になって現れるから、すこしずつ出来るようになってきたかもしれない。


さて、タイトルに記載した”セルフ・コンパッション”
この言葉は直訳すると、「自分に対しての思いやり」と捉えられる。
セルフは自分
コンパッションは慈悲のこころ・救いたい気持ち
という意味だ。
自分を責めたり、攻撃したりする思考が浮かんできたことに気が付いたら、そう考える自分に対して慈悲のこころ、つまり思いやりをもって自分を抱きしめてあげるのだ。
まるで親友が困っているときにそうしてあげるように。
そのためには、まずは自分の闇の思考に気づかなければいけない。
ありのままの自分を認めて、受け容れてあげることが大切だ。
まだまだ理解と実践の途中だから、うまくできたと感じるときはnoteに書きたくなる。

今日は特に、自ら自分の思考の闇に気づき、自分を労わるという行動を能動的にできたことが大きな進歩だった。

クリスティーン・ネフさんの『セルフ・コンパッションーあるがままの自分を受け入れる』という著書をおすすめしておくが、私の考えが気になった方がいたらいつでも聞いてほしい。


母を責めるわけではないが、
毎朝セルフコンパッションを発動する必要があるような環境にいて、
午前中はだいたいその活動に時間を使うことの方が多い。
本当にすべきことにエネルギーを割けないまま一日が終わってしまう。
その事実と、この環境から動けていない自分に嫌気がさす毎日だが、
でも、そのおかげで良い記事が書けていつか辛くなった人がこの記事を読んで共感を生むことがあるかもしれない。
どこかの誰かの希望になって元気づけることができたら、それはとても幸せなことだ。


5月は田植えの手伝いに石川へ行くことを決めた。
久しぶりに会う地元のおじさんたちに送った、愛あふれるメッセージに自分が一番満たされる。

セルフコンパッション発動!のタイトルをふと見つめながら、頭の中で響いたのは、力強く叫ぶミサキの「エヴァンゲリオン、発進!」の一言。

私の世界はいろんな人に支えられている。
私は心の機微をとらえて感動と共感と勇気を与えてくれる、この世のすべての物語が好きだ。

さあ今日はいいお天気だ。

そうこうしているうちに日が暮れそうだ。

明日の自分や
どこかの誰かの救いになりますよう、
愛をこめて



追記:心理療法ACTとは

私が過去に学んだ心理療法ACTについては、いつか私の言葉でもまとめられたらいいなと思っていますが、今回はわかりやすくまとめられた記事を発見したので、ぜひご参照ください。
メンタリストDaigoさんのYoutube動画で、ラスハリスさんの『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』が紹介されていたことから、この心理療法の存在を知り、著作を手に取りました。


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