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大学新一年生と話してみて、改めて気づかされた話


こんにちは!あいでんです。

昨日から夜間部と昼間部の基礎ゼミナール(1年生が学籍番号順に割り振られる少人数講義)の初回の講義にゼミの先生に誘われ参加するというなかなかカオスな体験をしてきました。

面白いことにそこで話した内容は「悩める新大学一年生に大学生活を振り返り大事だと思うことを話す」という先週の木曜日にまさに体験した内容でした。

ということで私の大学生活を走馬灯的に振り返り、私が伝えたいことを長々と喋ってきました。ちなみに喋ったことは”自分のしたいことのために今のじぶんがしないといけない事を考えて大学生活を送って欲しい”ということと、”自分が生活する環境を大事にして欲しい”ということでした。

まあ、そんないいことはいってません。そもそもそんなことが言える立場にないだけなのですが(笑)。


こういう場だと自分の頭が整理できたり、普段は聞けない話をゼミの先生から聞くことができるので意外と好きだったりする。話すのももちろん好きですし。

全く違う文化の人に”伝える”というのも言葉の選び方なんかを意識しないといけないので自分のためになる。

こういう場に出ると、改めて実感することがある。それは、質問タイムの時に手を挙げて発言するということの重要性だ。ゼミでは常々「何もないということは100%理解したか、もしくは100%アグリー、それか全く興味ないということの現れだ」という風に言われていますが、いざその立場に立ってみるとその意味がよくわかる。

今ふとそれぞれの基礎ゼミナールを思い出してみた時に記憶に残っているのは手を上げてくれた人たちだけだった。そりゃそうだようね。手をあげるということは何かしらの形で興味関心があるということを示しているのであって、自分に興味を持ってくれている人の方が印象に残りやすいのは当たり前だ。

私は普段から手をあげるようには心がけているけれども、この心がけを忘れないようにしようと改めて思いました。



最後に最近思っていることを少し。

仮にも4年生という立場になると、流石に自分の体験や経験をベースに後輩たち(ゼミ内外に関わらず1~3年生)に何かしらを話す機会が多くなってきた。今回でいう自己紹介がてらに話す時だったり、今のシーズンでいうならゼミ募集に関する時だったり。はたまた創Pに関することも喋ったりする。

今までは「この子のために」なんてそれらしいことを考えて行動を変えてたり関わり方を変えてたりしていたんだけど、そういうのが急にめんどくさくなってきた。めんどくさいというのはやりたくないという意味ではなくて、そこまで考えきれないという意味。

適切なそれを認知できるほどの能力はなければ、適切なそれを設計できる能力も幅もない。だからそこまで考えないようにしようというのが最近のスタイル。言いたいことやいう必要があると私が思えばひたすら言うし、そこまでではないと感じていれば言わないようにしている。


というのも最近そういうことを考える時間が結構あって、「今までの考え方の時って”ジブンゴト”としてとらえきれてないんじゃない?」という疑問が出てきたからだ。今でのことを”ジブンゴト”として捉え直してみたらもっと違う関わり方がよかっただろうという結論に至った。どこかでまだ”タニンゴト”だったんだなと。

もちろん守るべき制約というのが多少はあって、その中で自分の為すべきことをやるという風に考え方が変わった。

そこからどう感じるかとか成長云々は当人たち次第のウエイトが高い部分ではあるし、そのマネジメントは私より何倍も優秀な先生がやってくれるだろうという少し寄りかかっている部分もあったりする。


自分が中心ではなくなると「オブザーバーなんで」とかいう都合いいセリフを吐いて都合いい立ち位置であぐらをかくのは卒業しようかなと思っています。

っていうか、目の前にあるものごとを”ジブンゴト”として捉えて自分の最大のパフォーマンスをすることがアントレプレナーシップ(企業家精神)であり、常々ゼミで言われていることではないのかと感じています。

そんなんこんなで、これからは今まで以上に喋ることが多くなるのかななんてことが予測されます。うるせえなと思ったら言ってください、黙ります。それ以上はダメだろと思ったら言ってください、踏みとどまります。

ということで、最近起こったことと思っていることの話でした。


それでは、また次回!

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