『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 18

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4-2-2. 歪んだ空間  <全体性>の解体

 先に述べたように、リベスキンドのドローイングはその「不完全さ」によってドローイング=建築の連関を破壊し、「謎」として建築というものを変容ないし解体してゆく機能を持っている。このような姿勢は『マイクロメガス』のような純粋にコンセプチュアルなドローイングのみならず、実施された案を含めたその後の彼のドローイングにおいても確認することが出来る。それらは概して殆んど理解を拒んでいると思えるほどに難解なものであるが、この難解さは、彼自身の「審査員は自分の案が読めなかったから一等賞をくれたのさ」というようなシニカルなコメント(113*)にあらわれているように、自覚的なものであり、挑発的なものである。

 例えば『シティ・エッジ』と呼ばれる1999年の案を見てみよう(図37)。

このドローイングが決して分かり易いものではないことは誰の目にも明らかであろう。この難解さの原因は主に、一枚のドローイングの中に様々な空間表象が入り乱れていることにある。全体として一見すると軸測図であるかのように見えるのだが、実はこのドローイングには様々な図法が混在している。例えば左上から中央部分にかけてアクソメで描かれている画面をそのまま斜め右下方向に辿っていくと、連層している階段部が現れてくるが、ここではいつのまにか図法がアイソメに変わってしまっている。また上部には断面図、下部には平面図が描かれていて、さらに左下部分にはアクソメに重なるかたちで円形部分の側面図が挿入されている。ほとんど図法のメドレーといったかたちで、異なる画面が入れ替わり立ち替わり目に飛び込んでくるのである。多様な図法が混在されているこの画面を見る時ひとは、三次元的な空間表象と二次元的な平面投射の中の間を無限に往還することを強いられ、次元の狭間に宙づりにされることになる。

さらに「スパイラル」の愛称で知られる、『ヴィクトリア&アルバート美術館の拡張計画』(1996)には、リベスキンドの軸測図に仕掛けられた“軸の歪み”を見ることが出来る(図38)。

3-2-1.で説明したように、軸測図とはXYZの三軸空間であるが、これらの軸のうちZ軸は通常鉛直方向にとることになっている。しかるにリベスキンドの場合にはそれは守られていない。というよりもそれは意図的に逸脱されているのである。このことを端的に示すのが、このドローイングのうちに複数のZ軸が存在するという事実である。このことはドローイングの中に描かれた破線に注目してみると分かる。この破線は積層する各階を結ぶ線として引かれており、高さ方向つまりZ軸を表すものである。そして通常の軸測図法の原理からいけば高さ方向の次元軸はひとつであるはずだから、これらの破線はすべて同一の傾きを持っていなければならない。しかしこのドローイングの中には数種類の軸の傾きが混在している。そのため、例えばエレベータを繋ぐ一つの破線とエスカレーターを繋ぐ別の破線の、本来平行であるべき二本の軸はある地点で交わってしまうことになる。しかしこれは三次元的な空間表象としては不合理な事態であり、この交点において、歪んだ二本の軸の間に押しつぶされ空間はそこで内破してしまう。あるいはまた右下の、スカイライトが取られ緑化された中庭の部分を見ると、そこだけが唐突に仰角の小さいアイソメによって描かれてもいて、このような軸の混在や歪みはあたかも飛散する断片のような印象をこのドローイングに与えている。そしてこのような特異なドローイングの構成が我々の空間表象を破壊し、この建築を全体として捉えることを不可能にするのである(114*)。

 このような空間表象の歪みは、単なる変形やデフォルメなどとは異なったものである。MOMAでの「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」と題された企画展の主催者であるマーク・ウィグリーは、リベスキンドらの建築の特徴について以下のように述べている。

「この乱れは、表面上の激しさから生じているのではない。それは、破砕やスライス、分裂、貫通ではない。これらの方法において外部から形態を乱すことは、形態を脅かすことではなく、ただダメージを与えるだけである。・・・代わりにデコンストラクティヴィスト・アーキテクチャーは、内部から形態を乱す。・・・内部の不安定は、実際に内部構造、構成に組み入れられたのである。それは、数種の寄生虫がその形態に感染し、そして内部からその形態をゆがめたようである。」115*

 あるいは一見するとこれらのドローイングは、視点の混在するキュビズム的な画面に類似のものと思われるかもしれない。しかしながら厳密にいうなら、その意味合いはキュビズム的な視点の混在とは決定的に異なったものである。キュビズムの画面における場合、対象はあくまで定まったある物体として存在しており、ただそれを眺める観察者の視点が移動することによって様々なアスペクトが混在してしまうだけである。その意味でキュビズムが、主観的な相対性を画面に持ち込むものであるとはいえる。しかし対して、軸測図の歪みはそのような主観的相対性としては捉えられない。というのも軸測図法には原理的に視点が存在しないからである。3-2において述べたように、それは透視図のように特定の視点を持たないが故により客観的な空間表象であると考えられ、近代建築に好まれ用いられてきたはずなのだ。するとこのドローイングに混在し、交錯する歪んだ軸は、我々の主観によって引きおこされる多様性ではなく、空間そのものの「内部からの」歪み、「内部の不安定」だということになる。

 このような形での空間表象の破綻ないしは解体はリベスキンドの『マイクロメガス』の不合理な空間表象が企図していたものと同種のものである。それ故リベスキンドが通常の(建物を表すと考えられるような)ドローイングにおいてもあえてこのような図法上のトリックを用いた裏には、そこに「不完全さ」を与え、建築の安定した表象を打ち崩そうという意図があったと考えられる。ある建物は、それがいかに過激なものとして設計されようと、建物として建ち上がった時には必ず一つのまとまりを持った全体をなしてしまう。これは建物が物理的実体である以上不可避の事態である。リベスキンドのドローイングは軸の歪みによって、建築の<全体性>という、あまりにも自明でありそれゆえに強固でもある規制をも逸脱し、建築を解体へと追い込むのである。

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113* 八束はじめ「私はダニエル・リベスキンドについて何を書く、あるいは書かないのか?」『ユリイカ』2003.03, p.135
114* ちなみにベルナール・チュミのドローイングにも度々同様な軸の歪みが見られる。デコンストラクティビストとして名指される両者に共通している点で興味深い。
115* ウィグリー,「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」『10+1』, No32 , p.135

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