『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 17

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4-2. ダニエル・リベスキンドのドローイング

4-2-1.『マイクロメガス』

 本節では、前節チュミとほぼ同世代の建築家ダニエル・リベスキンド(1946-)のドローイングを取り上げる。彼もまたポストモダンの時代の建築家であり、「デコンストラクティヴィスト」として位置づけられる。しばしば「解体としての建築」とも呼ばれるダニエル・リベスキンドの建築においても、ドローイングは極めて重要な存在である。

 彼は1979年のドローイング『マイクロメガス――終末空間の建築』によって鮮烈なデビューを飾った。これは10枚からなるドローイング集であり、それぞれ「1.庭The garden, 2. 時の断片Time sections, 3.漏洩Leakage, 4.小宇宙Little universe, 5.北極の花々Arctic flowers, 6.巣穴の法則The burrow laws, 7. ダンス・サウンズDance sounds, 8.マルドロールの方程式Maldoror’s equation, 9.鉛直水平線Vertical horizon, 10.夢の微積分Dream calculus」等といった謎めいたタイトルを持っている。そしてそのドローイングはいずれも「終末空間の建築」という『マイクロメガス』の副題にふさわしい極めて過激な図像表現となっている(図35)。

 一見して何よりも驚かされることは、それらのドローイングの中にいかなる建築物の姿も認められないという点である。チュミの場合でさえ、建物とおぼしき物体の表象がなされていたのだが、リベスキンドの場合には一まとまりの物体と見ることが出来るようなものすらなく、そこには完全に分解されてしまった線や面の断片が浮遊し、複雑に錯綜するオールオーヴァーな画面が広がるのみである。

 このようなドローイングを目の前にして、本論において最初に問うておかなければならない疑問は、果たしてこのようなドローイングを建築ドローイングと呼ぶことが可能なのだろうか、ということであり、そしてこれをそう呼びうるとしたらそれはいかなる意味においてなのか、ということである。

 このドローイングを絵画と区別する第一のものは、それが建築に関わる意図を持って描かれている、という事実である。リベスキンドは『マイクロメガス』に付した解説文の中で次のように語っている。

「建築のドローイングは、近代において記号の同一性を頼みにするようになる。建物を建てることと建設することの圧倒的な努力における、確固としてもの言わぬ共犯者となったのである。こうしてドローイング本来の開かれた未知の地平は、技術のアプリオリな一貫性を主張するレベルへと縮小されてしまったのである。ドローイングは自らを、自明な段階によってなされる一連の作業工程に協力する、単なる技術的な助手として位置づけることによって、自らを消した目立たぬ要素として、あるいはあらゆる外的な参照関係から切り離された純粋な記述組織として姿を現すことになる。・・・[しかし] いずれにせよ、ドローイングはある物体の影などではなく、また単なる線の集積でもなく、慣習という惰性的な力への盲従でもない。わたしの作品は、それに対してはいかなる(決定的な)言葉も与えられないような不十分さが知覚の核心にあることを表現しようとするのである。」103*

このリベスキンドの言葉のうち前半に語られていることは、本論のテーマと近いものであり、既に指摘してきたようなドローイングの自律化の過程に関する洞察として興味深いものである。ドローイングは、独自の記号体系を作り上げ、その体系に則って記述をすることによってある自律性を獲得した。近代にはドローイングは、リベスキンドの言葉でいえば「あらゆる外的指示対象から切り離された純粋構造物」として自律したものとなったのである。

 このようなドローイングの自律性に対してのリベスキンドの態度は否定的なものである。 この自律性は反面で、記号上の規則による制約でもあるからである。彼はそれを「ドローイング本来の開かれた未知の地平」の「縮小」と捉え、「慣習という惰性的な力への盲従」と呼ぶ。ここに読み取れるのは、旧来の記号体系においては排除されてきたドローイングの可能性を改めて探求せんとする態度である。彼があの解読不可能な『マイクロメガス』によって試みているのは、ドローイングを「建物を建てること」のためのルーティン・ワークから解放し、「慣習という惰性的な力への盲従」から逸脱させ、これまでに把握されることのなかった、ある「不十分さ」をそこに露見させることなのである。

 例えば『マイクロメガス』を詳細に見ると、そこでの描写が単に錯綜した線の集積なのではなく、不合理な空間表象を形成するよう巧妙に仕組まれていることに気づく。それらは軸測図法に則って三次元的な表象を形作るように見せながら、実際にはその表象を破綻させてしまうのである。例えばある面の輪郭を追っていくと、本来閉じるべきその輪郭線が解放されたままに終ってしまっており、それまで図として表象されていた面が一転、地へと窪んでしまう(図36)。

 我々が『マイクロメガス』を軸測図法に則って、建築ドローイングとして読み解こうと詳細に辿る時、まるでエッシャーの騙し絵のような空間表象のねじれをそこかしこで経験することになるのである。このことに気付いた時、我々はそドローイングを前になんとも言えぬ不気味さを覚え、足元が揺らぐような不安定な状態を経験する。そして『マイクロメガス』を見ることによって生じるこの眩暈のような感覚こそが、我々がドローイングによる慣習化された空間表象に慣れきっていること、すなわち「慣習という惰性的な力への盲従」の中にあることを告発するのである。そもそも、いかにこのドローイングが見慣れないものであれ、もしこれを例えばポロックのような純粋な線画として見る限りはそこにはいかなる破綻も「不十分さ」もないはずなのである。われわれがそこに破綻や不完全性を認めるのは、無意識にドローイングとしての記号的慣習に則ってそのドローイングを三次元的な表象としてみてしまうからに他ならない。つまり逆説的ながら、『マイクロメガス』は建築ドローイングの空間表象としては(意図的に)不完全であるという正にその事実によって、自らが建築ドローイングに他ならないことを主張するのである。

 そしてまた、このドローイングによって引き起こされた撹乱は、ドローイング=建物の間に結ばれた、「同一性」という既存の慣習のパイプを逆流して、建築の表象そのものにまで影響を与える。『マイクロメガス』は、その不完全な様態によって空間表象の破綻を引き起こし、その破綻によってまた既存の建築の表象をも解体させる、という意味において、またも逆説的ながら建築的なものなのだといえるのである。

 このようなドローイングの使用は、近代までのドローイングとは異なり、単なる伝達とは捉えられないものである。リベスキンド自身はそれを「謎」と呼ぶ。

「建築のドローイングの古典的公理が(まず、いくつかの代理表象理論をしっかりと確立し、それらを統合させてゆこうとしながら)秩序立てられた一個の包括的な理論の中で自らの有用性を明確にしていったのに対し、現代の形式的表現システムの方法は自らを謎として――すなわち、それがどのように使われるかが未定の、未知の道具としてさし出すのである。」104*

 「秩序づけられた一個の包括的な理論」を持ち、それを支えに主として代理表象として機能する<古典的ドローイング>に対して、「現代の」すなわちリベスキンドの手法は「未知の道具」として、「謎」として機能する。あたかも“謎掛け”という言説行為が通常の命題による伝達とは違い、聞き手の内部に答えを探求するある運動を生み出すように、リベスキンドのドローイングは伝達を担った媒体というよりもむしろ、それを見るもののうちに<建築>に対する問いを生起させ、その表象を変容させていく運動を生じさせるような「謎」として機能するのである。

「ある提示(プレゼンテーション)がある。しかしそれは常に、不完全さの様態に従う。つまり、遅らされ先送りされる完璧さが流動化された開放性と一致するような内的な戯れによるものなのである。作品は終わりのない連続の中にとどまる。というのもこの弁証法は止めることが出来ないからである。」105*

 この運動は、リベスキンドによって意図されたドローイングの「不完全さ」によって引き起こされる。『マイクロメガス』を見るものは、そのドローイングに仕掛けられた「不完全さ」を発見し、それを埋め合わせようとする不断の運動のうちに投げ込まれる。あらかじめ何を伝え、どのように伝えるかが定まった特定の伝達の機能を担うドローイングとは異なり、「未知の道具」としてのドローイングは常に更新されていく「終りのない連続」のうちに自らを展開していく。そしてその常に新たに建築の崩壊と構築を繰り返す「戯れ」によって、「新たな建築学的思考の領域」(106*)へと向かい、<建築>を未知の可能性へと開く。

「建築のドローイングはある特定の歴史の回復であり、その歴史の意志を保証し、そして常にその限界に挑もうとする。そしてのみならず、それは未来の可能性を先取り的に開示するものでもなる。ドローイングは単なる発明行為ではない。・・・・それは、客観的な達成とそれに頼る人間とを挑発しまた支えもするメカニズムを通じて、「他なるもの」が顕在化されるようなある種の経験の状態である。168, 205」

 『マイクロメガス』はそれ故それ自体として既に完結したものではなく、「「他なるもの」が顕在化されるようなある種の経験の状態」なのである。五十嵐太郎は『マイクロメガス』についてこう述べている。

「「マイクロメガス」は古典主義的な透視図法を拒否する。立面図や平面図という制度にも頼らない。かろうじて建築的な断片が存在する。現実の代理ではなく、それ自体が表現を開発するドローイング。「マイクロメガス」は驚愕すべき終りの世界として登場した。」107*

 五十嵐のいう「現実の代理ではなくそれ自体が表現を開発するドローイング」とは『マイクロメガス』のもつ「謎」としての力動的な性質を指していると考えられる。そしてドローイング自体にこのような独自の構成の能力があるとすれば、それは当然ながら建物とは異なった価値を有するものと見られるはずである。
リベスキンドは他のどんな建築家にも増して、ドローイングの価値を高く見ている。

「ドローイングの中に建築の起源があるということと、音楽が五線譜の上で作られ、それが公共の場でのパフォーマンスに変換されるということには、とても深い結びつきがあります。・・・・楽譜のドローイングも、それぞれの芸術の中で、構成的現実体(コンストラクティヴ・リアリティ)とでも言うべき存在なのです。」108*

 「ドローイングの中に建築の起源がある」―――すなわち第一にはある建物があって、実現のためにそれがドローイングへと渡され伝達されるのではなくて、ドローイングが形作る空間の表象自体がむしろ建築を形作るのである。『マイクロメガス』はそのような(再)構成をまさにその画面のうちで生じせしめる。ドローイング自体にこのような構成的な力を認めるとすれば、ドローイングは実際に建物として建てられることを待っている過渡的で未完成な状態というよりも、それ自体ある種の現実体(リアリティ)として認められうる。リベスキンドはこう主張するのである。

 また彼は雑誌『SD』でのインタビューの中で八束はじめに対し、建築において、建物を建てることに対して「実現化(リアライズ)」という言葉を使うこと自体が間違っていると指摘している。先の引用と合わせていえば、建物を建てることのみならず、ドローイングを描くこともまた建築の実現化(リアライズ)として捉えられるべきだからである。さらに彼は、ドローイングから始まり最終的には実物が建てられる、という流れを前提する既存の建築の考え方を「説話的あるいは神話的なストーリー」として批判する。このようなストーリーは、建物を、そしてさらに建てられた建物によって可能となる生活を「建築の目的」と考えることによって形作られる、いわば目的論的な連関である。しかしもし、その連関を規定している最終目的自体が問い直されるとすれば、ドローイングから建物へという一方向的な流れもまた、自明のものではなくなる。

「明らかに建築の目的(終末)は建物のオブジェではなくそのなかで起きる生活にありますが生活の目的もまた、人間は住まうということのために生きるわけではないから自己自身にはありません。何か別のところにあるわけです。今、私たちが通常これは普通である、これが正常な建築のやり方であると思っていることは、この100年の間に、近代と呼ばれる実証主義的な行き方によって定められたものですが、我々はその恣意的な点に留まる必要はないのです。」109*

 リベスキンドは建築の最終的な目的を再度問い直すことによって、<ドローイング → 建物 → 生活>という通常の目的の連関を「恣意的」なものとして解体してしまう。そしてそれによって建築とドローイングのあいだのヒエラルキーを根底から転倒してしまうのである。

「例えば、今まであったような建築のプロセスのヒエラルキーを逆にしたり、順序を変えてやることも出来るわけです。その途中で創造できるものがそれぞれ今度は別のクリエイティブな意味を持ってくるのではないかと思います。つまり最終のものの達成に結びついていくのではなくて、おのおのの出来事を表象していくということ」110*

 このような思考の結果として最終的に彼は、「ドローイング」も「模型」も「建築」も「生活」も「別の意味を持った等価なシンボルとしてあらわれてくる」と述べる。リベスキンドにとってはドローイングも模型も決して建物に対して補助的な手段であるのではなく、それ自体価値を有するものであり、それどころか「実際の建築、建てられたものは、ドローイングの表象化でしかないということすらできる」 とさえ言われる。五十嵐太郎はこのようなリベスキンドの発言に対して「ドローイングの達成として建築があるのではなく、建築こそがドローイングの表象だとしたら、スケッチから完成へという建築的な時間の概念がよじれている」 と述べているが、これをよじれと感じること自体、我々がリベスキンドのいう「説話的な構造」に囚われているからに他ならない。リベスキンドは五十嵐のいう「建築的な時間の概念」自体の問い直しを迫っているのである。

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103* リベスキンド「マイクロメガス 終末空間の建築」『ダニエル・リベスキンド展』カタログ, p.168,205
104* リベスキンド「マイクロメガス 終末空間の建築」『ダニエル・リベスキンド展』カタログ, p.168,205
105* リベスキンド「マイクロメガス 終末空間の建築」『ダニエル・リベスキンド展』カタログ, p. 168-169,205
106* ibid., p. 169,205
107* 五十嵐太郎「線・争の建築 解体から希望へ」『ユリイカ』2003.03,青土社, p.200
108* Libeskind, The walls are alive , The Guardian, 2002.7.13,
109* http://www.guardian.co.uk/arts/features/story/0,11710,754320,00.html
リベスキンド×八束はじめ×鈴木了二「インタビュー」『SD』1990.02, p.80
110* ibid.
111* ibid.
112* 五十嵐太郎「線・争の建築 解体から希望へ」『ユリイカ』2003.3, p.210

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